三代目 アラゴン王 ウード1世 (1141~1183)
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1141年の欧州情勢
祖母サラジンの死を受け、新王ウードが王位を継承した1141年。ヨーロッパ大陸にははほぼ全域にキリスト教の布教が進み、異教は北辺のサプミやビャルマランドにわずかに残るのみ。
モルダヴィアのペチェネグ人、クリミアのクマン人といった遊牧民たちもそれぞれカトリック、正教を受け入れ、キリスト教世界の一員となっていた。
そのキリスト教世界の中心の一方が、神聖ローマ帝国皇帝・ルートヴィヒ1世。オストフリースランドの1伯爵でありながら皇帝に推戴された父・「慈悲帝」ゴッドシャルク1世から3年前に帝冠を受け継いだばかり。
直轄領こそ小さいものの帝国は大きな反乱もなく安定しており、皇帝の威信は確固たるのもになりつつある。
一方、キリスト教世界のもう一つの軸である東の帝国は、アルメニア地方をねらったセルジュークのスルタンを退けたものの、ドゥーカス家の帝位はアレクシオス=コムネノスによって簒奪されていた。
男子のなかったアレクシオスの跡は娘のピュリスが継いだが、アレクシオスの甥イオアンネンスにその座を追われることになる。さらにアナトリアの一部は継承によりグルジア王国に渡るなど、不安定な状態が続いていた。
「征服王」ウィリアム一世による征服以来、4代目を数えるノルマン朝イングランド。
大陸側のブルターニュ、ノルマンディーも抑え、安定した王国運営を実現している。現王トーマス1世は4年前に王位を継いだ学究肌の人物である。
イベリア半島では剛勇王サンチョ2世亡き後、再び北のヒメノ朝の王国が分立していた。タイファ諸国の間でもジリジリした国境の押し合いが続いており、イベリアの闘争の出口は未だに見えない。
一方、地中海を挟んだマグリブ地方では、サハラ砂漠を越えてガーナ、マリ地方にまで至る巨大な版図を有するアナバ朝が勢威を誇っている。ムラービト家の一族であったフェズ太守アナバは、王国内の権力闘争を勝ち抜き、以降30年近くこの大国の頂点に君臨していた。
この軍勢がジブラルタルを渡るようなことがあれば、イベリア情勢は大きく動くことになるだろう。
アラゴン王ウードと周囲の人々
こうした情勢の中、弱冠19歳でアラゴン王に即位したのがウード1世である。この年齢にして傑出した指揮官としての能力を見せており、個人的武勇も抜きん出ている、理想的な軍人である。
呵責なく剣をふるい、現地での収奪も辞さない冷酷さもまた、この時代の将帥としては必要な資質と言えるだろう。
妻はアラゴン家のチュアナ・アリオノールズ・ド・アラゴン。旧アラゴン王家の一員で、ウードの祖母サラジンに王位を追われたアラゴン王レミロの叔父・サンチョの曾孫にあたる。
チュアナの母アリオノールは、サラジンがアラゴンを攻撃した際に捕縛されたのち十字軍の宮廷で育ち、オック人の騎士ミロと結婚した。ミロとアリオノールの間に産まれたのが彼女である。チュアナもまたサラジンの宮廷で育てられ、年の近かったウードの妻としてサラジンに選ばれることになった。
新王を補佐する評議会には、アキテーヌ地方の名だたる諸侯がずらりと顔を揃えた。いずれも動員兵力3000に迫る実力者たちであり、彼らの支えはウードにとって不可欠な要素であった。
そして、このアラゴン王国で摂政として専権を振るうのが、ウェスカ伯レミロ2世である。ウードは父ジェルドゥインの夭逝によりわずか4歳でアラゴン公の称号を得ていたが、バルセロナの宮廷で養育されていたウードに替わって公領の運営を一手に握っていたのがこのレミロであった。
ウードがアラゴン王に即位すると彼はそのまま宮廷を掌握し、王国摂政として権力を握るに至った。
摂政レミロとの暗闘
ウード1世の治世は、摂政レミロ2世との権力闘争で始まった。長らく政務をレミロ2世に仕切られていたため、ウードの扱いはあくまでお飾りの王であり、役人たちは重要事項では常にレミロの意向を伺う有様であった。
生まれながらに王として育てられた野心家のウードにとって、この状況はあまりにも屈辱的と言わざるを得なかった。レミロの手より権力を取り戻し、誰がこの国の真の支配者なのかを証明する必要があった。
戴冠式を済ませたウードは、さっそく王妃チュアナを伴ってサンティアゴ巡礼に出発する。まずは聖界の方面に、己の支配者としての正当性をアピールする狙いであった。
また、巡礼の途中にイベリア各地の宮廷や城塞をめぐり、見聞を広める目的もあった。尚武を旨とする北イベリアのカトリック王国の宮廷での交流や、サラゴサやトレドといったムスリムによる先進的な城塞を検分した経験は、武人たるウードにとって大きな血肉となったという。
巡礼でウードが宮廷を留守にする間、レミロの専横は続いていた。同輩の領地の請求権を要求したり、財貨を巻き上げたりなどとやりたい放題である。
さらにレミロは教皇まで味方につけ、アラゴン王国の正当なる支配権を主張し始めたのである。もちろんウードはこれを黙殺したが、教皇までレミロの味方であるというのはウードにとっても衝撃的な事実であった。
レミロは神学の分野でも名を成し、聖界に多くに支持者がいた。司祭たちの中には「聖伯」などと彼を呼び慕う者もあり、ウードはこれらの声に対抗していく必要があった。
巡礼から帰還したウードは、さっそく巡礼者として得た名声を背景に聖界に働きかけ、王としての権力を確立を試みる。
これに対し、レミロはむしろウードとの関係の修復を望んだのか、あるいは油断を誘いたかったのか、公私にわたって接近を試みてきた。だが、妥協を望まないウードはこれを拒否。さらに、アラゴン公時代に約束したソブラルベ伯領のレミロへの引き渡しを無視するという事件もあり、二人の関係は破綻していく。
2人の確執は激化し、ウードによるレミロ暗殺が計画されるほどであった。その計画にはレミロの妻マルガリーダも協力していたという。
自らの思うようにならぬ王国の状況に、ウードは溜まった苛立ちを封臣にぶつけるしかなかった。
しかし、この暗闘は意外な形で終わりを告げる。1144年5月22日、突如としてレミロの身柄をバランシヤ*1伯アスパトが拘束。レミロからその地位を引き継いだと主張し宮廷を掌握すると、新たな摂政の地位に収まったのである。
このアスパトこそ、6年前、ウードの成人の宴で女王サラジンと友情を結んだ、あの青年であった。
新たに摂政となったアスパトは、前任者のレミロ2世とはうって変わり、摂政として忠実な仕事ぶりを見せた。同輩の封臣たちの目線を気にすることなく、摂政の委任業務を堅実にこなすと、その成果を着服することなく全てウードに差し出したのである。
文化の違いにこだわらず、君主を敵対者ではなく共存者とみなす、アンダルシア人特有の気風によるものであった。
こうして、レミロ2世の失脚とアスパトの台頭により、アラゴン宮廷での王と摂政の角逐はひとまず沈静化し、穏健な共同統治体制が確立した。とはいえ未だに摂政の権力は強い。摂政が忠実であるうちに、少しずつ王の権威を取り戻しく必要がでてくるだろう。
オック大反乱
私生活でも、この時期のウードの人生は上向きであった。王妃チュアナとの仲は睦まじく、1145年4月には待望の長女アリエノールが誕生した。アリエノールは生まれつき血友病を抱えていたものの、なんとか幼少期を乗り越え、すくすくと成長していった。
しかしそんな1146年5月、事件が勃発する。かねてより、フランス系のアンジュー王朝の支配に不満を抱えていたオック人民衆が一揆を画策。蜂起に走った彼らに、なんとトゥールズ・ガスコーニュ・プロヴァンスの3公爵が同調するという事態になったのである。
いずれも評議会に参加する強力な公爵たちであり、彼らの兵力を加えて反乱軍は1万2000にまで膨れ上がった。
対するウード側は、異父弟のノルマンディー公ヒューの援軍を合わせても1万。兵力はやや反乱側が優勢であった。
合流されてはこちらが不利と見たウードは、ノルマンディーからの援軍を待たずラングドック地方を横断、セヴェンヌにてまず民衆の指導者エマニュエルの軍を粉砕する。
つづいてウードは軍を南に向け、ニームでプロヴァンス軍を捕捉。湿地に足を取られたプロヴァンス軍をことごとく討ち取り、4000近くのプロヴァンス兵の屍を沼に沈めるという大勝利を得た。
アラゴン軍はさらに北上し、ガスコーニュ・ラングドッグの両軍あわせて7000が集結していたジュヴォーダンで決戦に及んだ。
この戦いでウードは采配をアルバラシン伯フライに一任。反乱に荷担したガスコーニュ公に替わって元帥に就任したこのムスリム軍人は、軍事への深い洞察と、森林の環境を生かす特殊な戦術に長けていた。
ウード期待に見事に応えたフライは反乱軍を散々に粉砕。この勝利で反乱の趨勢は一気にウード側に傾いた。
その後も各地で反乱軍は敗走を続け、1147年7月、ついに反乱軍が降伏。しかし、反乱に加担した諸侯を罰し所領を没収しようとしても、宮廷の役人たちは全くその意を受けようとはしなかった。
結局、反乱に加担した3人の諸侯たちは身代金のみで放免されることとなった。反乱鎮圧によりウードは軍人としてその力を見せつけたものの、王としては未だに無力であることを痛感したのである。
功臣の運命
オック人の反乱を制圧したウードは、王の権威を確固たるものにするため、精力的に行動を開始する。
反乱したアキテーヌ地方でのグランドツアーを開催することで威信を示し、摂政の権限を少しずつ削っていく。その一方で摂政アスパトの娘と異母弟ウィリアムの縁組を行い、バレンシア公の称号を与えるなど、懐柔にも手を尽くし、アスパトの反発を防いだ。
1151年には対外戦争を開始。アーミル家のシャジャラが治めるムルシア地方に進軍すると、アラカントでの初戦でシャジャラを捕え、国境一帯の領地を征服。
さらには返す刀でカスティーリャ王国にも仕掛け、長らくカスティーリャに抑えられていたアラゴン公領の中心都市・サラゴサを奪取する。さらには名門ヒメノ家の旗を奪い取るという余録もついてきた。
ようやく順調に王として歩み出したかに見えたウードであったが、1153年12月、またしても驚きの報せが届く。なんと、モリナ伯ジュールデンの策動により、今度はアスパトが摂政の地位を奪取され、囚われの身となってしまったのである。
ウードは身代金まで用意しアスパトの解放を要求するが、アスパトをライバルとして強く敵視するジュールデンはこれを拒否。ウードは密かに刺客を放ち、ジュールデンを始末することでアスパトの命を救おうとするが間に合わず、翌年7月、アスパトはジュールデンの手により処刑されてしまったのである。
9年にわたりアラゴン王国の共同統治に務めたパランシヤ公アスパトのあっけない最期であった。
アスパトとジュールデンの間には、浅からぬ因縁があった。かつてアスパトがモリナ伯領の牧草地開発を助力しており、その縁から2人は友情を結んでいたのだが、何とその恩義にも関わらずジュールデンはアスパトの友情を裏切ったのである。それ以来、非常に険悪な関係が続いており、ついにはこの事態を招いたようだ。
摂政に収まったジュールデンは、ウードが放った刺客の手を逃れ、しぶとく権力の座にしがみつく。ウードはまたしても摂政との暗闘の日々を迎えることになるのである。
対イングランド戦役
ウードは戦士としての己に強い自負を抱いていた。配下の騎士たちの中で特に腕自慢の2人が、どちらが王国一の戦士かを巡って諍いを起こした時は、自ら剣を取り彼らを叩きのめすほどであった。
そんなウードにとって、自らの武威を示す絶好の機会が訪れた。異母弟であり同盟相手でもあるノルマンディー公ヒューが、イングランド王トーマスに反旗を翻し、ウードに援軍を求めてきたのである。
ノルマンディー軍とアラゴン軍は合わせて13000。一方のイングランド側にはスウェーデン王バルドルが味方し、その兵力は15000。ふたたび兵数不利の戦いとなった。
ウードはアラゴン軍をノルマンディーに集結させると、一挙にドーバー海峡を押し渡った。ケントに上陸したアラゴン軍はイングランド軍の迎撃を受けるが、アルバラシン伯フライの指揮によりこれを粉砕。アラゴンの誇るカバジェロ軽騎兵が、イングランド軍の重歩兵を次々と馬蹄にかけ、槍の餌食にしていった。
余勢を駆ったアラゴン軍はサセックスにあるルイス城を陥落させる。その一方、軍を立て直しスウェーデン軍と合流したイングランド軍は、ノルマンディーに逆上陸。アヴランシュ城を取り囲んだ。
ウードは再度ドーバー海峡を渡ると、アヴランシュを攻囲するイングランド=スウェーデン連合軍に自ら軍を率いて攻めかかった。またしても縦横無尽に戦場を駆けたカバジェロ騎兵隊が猛威を振るい、数に勝るイングランド勢に対し大勝利を収める。
追撃をかけたアラゴン軍はディエップ市でスウェーデン軍を捕捉し、これを殲滅。スウェーデン王バルドルの本営に押し入り、スウェーデンの軍旗を奪い取った。
こうして戦争は1年半で決着し、敗北したトーマスは退位させられ、ウードの武名は西欧に大きく鳴り響いた。
一方国内では、1157年3月に摂政モリナ伯ジュールデンの暗殺に成功。2度にわたり暗殺をしのいだジュールデンだったが、さすがに悪運尽きたようだ。
後継の摂政はかつて宰相も務めた廷臣ループ・フォン・フランケン。能力は高いが忠誠心は低かっため、ウードは彼の排除も画策する。
なお、同年9月には初代摂政のレミロ2世が死去している。王位請求派閥を作るなどの動きを見せることはあったものの、結局アラゴン王国の政治の主流に戻って来ることはなく、故郷ウェスカで静かに息を引き取った。
1158年にはアル=サルクを再攻撃し、ムルシアを完全に征服。これにより、かつてバレンシア地方に覇を唱えたアル=サルクは大陸の領土をすべて失い、バレアレス諸島に逼塞する。
そして同年、またしてもノルマンディー公ヒューから援軍要請が届いた。
退位したイングランド王トーマスの跡を継いだ新王リチャードに対して、ブルターニュ公と手を組み独立戦争を仕掛けたのだ。
再びノルマンディーに出兵したウードは、ジゾーの戦いでイングランド軍を粉砕。続くボルオエの戦いではリチャード王を捕虜にし、あっさりと降伏させてしまった。
代替わりを経てさらに弱体化したイングランド軍はもはやウードの敵ではなく、アラゴン王国の勢威は大国イングランドを名実ともに上回っていたのである。
また、この戦争の裏で摂政ルーボーの暗殺に成功。後任の摂政は王妃チュアナがついた。この頃には摂政の権力はほぼ完全に制限され、摂政は王の補佐役として限定された政務をとるという形で定着していた。
ウードの即位以来、長く続いた権力の確立のための戦いはようやく終わりを告げたと言える。
だがその一方、この頃からウードには奇矯な言動が目立ち始めた。幻覚や幻聴に悩まされることが増え、時折支離滅裂な発言をしては家臣を戸惑わせた。長い権力争いと戦場暮らしは、徐々にウードは精神の平衡を狂わせていたのかもしれない。
イェルサレム十字軍
1160年12月、教皇ベネディクトゥス10世よりの使者が各地のカトリック諸侯の宮廷へと発せられた。半世紀以上前、アンジュー朝アラゴン王国が建てられるきっかけとなった大聖戦を、再び招集しようというのである。世に言う第2回十字軍の始まりである。
ベネディクトゥス10世が十字軍を差し向けようとしたのはつまりアテネやペロポネソス半島からなるヘラス地方、つまりはビザンツ帝国である。
当時のビザンツ帝国は内乱の末にコムネノス朝が倒れ、クレタ公であるウラノス家のバルダスが帝位を簒奪していた。だがこのバルダス、なんと密かに異端であるボゴミール派を信仰していたことが明らかになったのである。
このような新帝を諸侯が認めるはずがなく、諸侯や民衆は次々と蜂起。帝国はその全土が内乱の炎に包まれていた。
この異端皇帝の討伐の名のもとに、正教会の中心地たるギリシアにローマンカトリックの橋頭堡となる王国を打ち立てることが、教皇の狙いであった。
だが、ウードはこのギリシャ遠征に待ったをかけた。帝国ではドゥーカス家の請求者を押し立てる反乱軍が優位な戦いを展開しており、異端の偽帝は早晩倒されることであろう。そうなれば名目を失った十字軍は空中分解せざるを得ない。
それよりも60年前、初めて十字軍が提唱されたときに掲げられた、聖地イェルサレムの奪還を今こそ実行すべきであると、ウードは教皇に対し強く主張したのである。
アラゴン王として確固たる名声を築き上げていたウードの言葉を受け、教皇は十字軍の遠征先を聖地イェルサレルムに決定する。ウードの他にはデンマーク王エリク2世やスポレート公アルベルト・アッツォ2世、マグデブルク大司教モーリツといった諸侯が参集。
そして1062年4月、総計5万の十字軍戦士たちが各々エルサレムへ向けて遠征を開始した。
イェルサレムを治めるのはイスマイール派のファーティマ朝。11世紀後半、腐敗の果てに一度は没落した王朝であったが、12世紀に入るとカリフ・アンドロス1世のもと、エジプトからシリア全域に至るかつての勢威を取り戻しつつあった。
当代のエルサレムの主はアンドロス1世の次男にあたるスルタン・アガトニコス。父アンドロス1世よりエルサレム周辺を分割相続で受け継ぎ、独立勢力を保ちながら、アレクサンドリアに座す甥のカリフ・アンドロス2世とは同盟を結び、協調姿勢をとっていた。
十字軍襲来の報を受けたとき、彼らはエジプト周辺からスンニ派諸侯を追い出すべくジハードを進めている最中であった。アガトニコスとアンドロス2世はイェルサレム防衛を呼びかけたものの、ムスリムの中でも多数派とは言い難いイスマイール派のカリフの声に答えるものは少なく、兵力は十字軍の1/3にも満たなかった。
ウード率いるアラゴン軍を筆頭にした十字軍はキレナイカ地方に上陸し、現地の城塞を瞬く間に陥落させ橋頭堡を確保。10月にはカリフの居城であるアレクサンドリアを包囲し、さしたる抵抗も受けずこれを陥落させた。
これを見届けたウードは明けて1063年2月、アラゴン軍を地中海からレバント方面に上陸させ、2ヶ月の包囲戦ののちにヤッファの要塞を陥落させる。
そこへようやくファーティマ朝の軍が海上より姿を見せた。ヤッファ奪還を狙って上陸してきた彼らをウードは5000の兵を率いて迎撃。さらに諸侯の後詰めも到着し、上陸後で態勢の整わぬファーティマ朝の軍は完全に壊乱状態になった。なんと敵軍の総勢7500の兵士のうち生き残りは20名という、十字軍にとって歴史的な大勝利であった。
そして1163年9月、ファーティマ朝の軍勢は全面的に撤退。イェルサレム周辺に加え、アレクサンドリア、カイロを含むエジプトの中心地を支配するカトリック王国の樹立が宣言され、その王にはウードの長女アリエノルが選ばれた。
ウードは遠く中東の聖地に、アンジュー家の旗を見事に打ち立てたのである。
栄光の頂点へ
イェルサレム十字軍に勝利した後も、ウードは戦いの日々を過ごしていた。
1164年には娘アリエノールからの要請に答え、キレナイカ地方のスンニ派勢力を駆逐。続いて1166年にはノルマンディー公のブルータニュ侵入を支援した。
さらに1167年、バレアレス諸島の請求者であるアーミル家のアリーと友誼を結ぶと、彼の請求権を主張しアル=サルクのタイファに対して3度目の侵攻を行った。
まともな抵抗もできずに敗北したアル=サルクは、この戦により最後に残されたバレアレス諸島の領地も全て失い滅亡。これを受け、3年後の1170年、ウードはヴァレンシア王位を宣言した。
ヴァレンシアの人々はウードの姿に、かつて「カンペアドール」の異名をとった彼の祖父ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールの面影を見たという。
また、1168年にコルドバで開催された大トーナメントに赴き、自ら諸肌を脱いでレスリングに参加。その後のチェス大会と競馬では見事優勝を成し遂げるという大活躍を見せた。
バレンシアの宮廷では、武具職人のロザリンド・ド・エヴルーが見事な武具を産み出し、王国の威信を彩った。
1170年には嫡子ウードの結婚式が盛大に執り行われた。相手はトゥレイトラ太守ユースフ2世の3女タカマ、そして祭司を務めたのは教皇イオアンネス19世である。
ムスリムの花嫁の結婚式を教皇が執り行うというまさしく前代未聞の光景であったが、アラゴン王ウードの意向であればこのような無茶な要請でも教皇は無視出来ないことを意味していた。
こののち、ウードは地中海での勢力拡張を狙い、1172年にはカリャリ判事、アルボレーア判事といったサルディーニャの諸侯を臣従させ、サルディーニャ全島を支配下に収めサルデーニャ公を名乗る。
1175年にはシラクサを征服し、シチリア島にも足掛かりを得た。
地中海に勢力を広げる一方、イベリア方面では軍事活動を停止し、多方面に婚姻外交を展開した。
先の結婚式でトゥレイトラ太守の娘タカマを娶った長男ウードのほか、次男ウスタシュはセンシールのマリクの娘アイザと、次女ジャンヌはレオン王ガルシア2世と結婚。
さらにウードは庶子レイモンドをクルドゥバ共和国の市長ガジの長男サンヨと、五男フランソワをカンタブリアを支配するタイファ・グディエレの長女エヴァと婚約させた。
この婚姻政策の結果、イベリア半島では、ナバラ・カスティーリャの王位を有するオック人女王ベルタを除く、全ての勢力がウードと婚姻を結ぶに至った。
このウードの婚姻政策は、イベリア半島の歴史を大きく変えることとなった。アラゴン王ウードの圧倒的な威光の元、縁戚で結ばれたイベリアの各勢力は流血の歴史を水に流し、相互の信仰と文化を保証しあうことを宣誓したのである。
ウマイヤ朝の上陸と西ゴート王国の滅亡以来、イベリア半島を覆っていた長い闘争の歴史に、終止符が打たれた瞬間であった。
これにより、かつては冷酷王、あるいは盗賊殺しなどと恐れられたウードは一転して公平王と称えられることとなった。
十字軍を勝利に導き、イベリアの闘争を終結させたウードの名は、生ける伝説として地中海世界に刻まれたのである。
しかし、この頃のウードの栄光には影もまたつきまとっていた。ウードの精神を蝕んでいた狂気の影響は続いており、かつては天を衝くばかりであった覇気が影を潜め、自儘に家臣や家族を振り回すようになった。
1175年には、長女アリエノルが1歳の息子イルドベールを残し、遠くエルサレムの地で死去。十字軍女王としての重圧にさらされた彼女はハシシに頼るようになり、最後は生まれつき患っていた血友病により血が止まらないまま失血死してしまったという。
1179年には、バルセロナでトーナメントの開催中、次男ウスタシュが食あたりで亡くなったとの知らせを受ける。オーヴェルニュ公爵領を任せ、いずれはアキテーヌ王国を継がせようと期待していたこの次男の死は、ウードを大きく落胆させた。
ウスタシュの死によりアキテーヌ王候補となった3男ジェルドゥインのため、ウードは教皇に働きかけ、プロヴァンス公を破門させた上でその領地を没収。ジェルドゥインを新たなプロヴァンス公とし、その地盤を固めさせた。
自らの名を与えた長男のウードは、弟ウスタシュの死を受けて預かったオーヴェルニュ公領を無難に治めている。
四男ジェローはワラキアの女王と、五男フランソワはクレタ女公と結婚しそれぞれ1児を儲け、アンジューの血脈を西欧の外にも広げる役目を果たしていた。
相続の態勢を整えたウードは安堵したのか、あるいはここまでが彼の天命であったのか。1183年1月のある日、ウードは心臓の不調を訴え、そのまま息を引き取った。61歳であった。
40年以上に及ぶその治世の中で、十字軍を含め18の戦役に参加し、また19の合戦で自ら指揮をとり、その全てに勝利を収めた。傀儡王として即位しながら、剣をもって数多の栄光を積み上げた武王であった。
死後、その広大な王国は分割され、アラゴン王位を長男ウード2世が、アキテーヌ王位を三男のジェルドゥインが継ぐこととなる。