初代 トゥレーヌ伯フルク (1066~1099)
アンジュー兄弟の相克
1066年のフランス王国には、カペー家の若き王フィリップ1世に仕えるアンジュー家の封臣が2人いる。
1人はアンジュー伯ジョフロワ3世。家名の由来でもあるアンジューと、ロワール川を挟んで隣接するソミュールの2伯爵領を治めている。
そしてもう一人が今回のプレイヤー、トゥーレーヌ伯フルク。分割相続で兄ジョフロワと領地を分け合う形になっている。
兄弟どちらも未婚の子なし。請求権こそ設定されていないが双方がお互いの第一後継者となっており、このゲームのプレイヤーであれば血を血で洗う抗争を予感せずにはいられない状況だ。
強い野心と強欲さを持ち、他者を重んじず虚言を弄する、それがトゥーレーヌ伯フルクという男である。そんな男が兄ジョフロワの下風に立つのを良しとするはずもなく、いずれはその領地をすべて我が物とすべく虎視眈々と兄の命を狙っていた。
しかしそれはともかく、貴族としてはまず結婚である。フルクがその妻として選んだのは、ブルゴーニュ地方に3領を有するオセール伯ギヨームの長女、エルマンガルド・ド・バショモンであった。
良縁を成就させ意気軒昂となるフルクに、早速好機が訪れる。1067年の冬、クレルモン伯ルノーからの狩猟の誘いを受け現地に到着してみれば、何とそこには兄ジョフロワの姿があるではないか。
だが、フルクはその好機を捕らえることはできなかった。しかもあまつさえ、彼の所業はジョフロワに気づかれてしまったのだ。慌ててフルクはトゥーレーヌの居城に逃げ帰った。弟の邪な思惑に気づいたジョフロワがどう出るか、場合によっては戦もあり得る…と思案するフルクだったが、事態は急展開を見せる。
1067年12月、フランス国王たる若きフィリップ1世が、破門のかどでジョフロワの投獄を試みたのだ!何とか逃れたジョフロワは王に反旗を翻したものの、彼に味方する諸侯はフランス内外に1人もいなかった。
追い詰められたジョフロワはアンジェ城に立て籠もるも翌年には落城。身柄を拘束され、王命により処刑されてしまったのである。同年に成人しようやく親政を開始したばかりのフィリップは、この処断により諸侯を畏怖させようと考えたのであろうか。
こうして主を失ったアンジュー家伝来の領地は、相続により労せずしてフルクの手に転がり込んできたのである。何たる幸運か!この知らせを受けたフルクはすぐに私室に籠もると、大いに快哉を叫んだという。
早速フルクはアンジェに居城を移し、アンジュー家領の統合と、自らが家長となったことを内外に示した。この日以降、彼はアンジュー伯フルク4世を名乗るようになる。
シャンパーニュ公との抗争
アンジュー伯就任と直後、フルクにまたしても嬉しい出来事があった。かねてより身ごもっていた妻エルマンガルドが無事に出産を終えたのだ。生まれた娘にフルクは妻の名をとり、小エルマンガルドと名付けた。
貴族の常として、明らかな政略結婚であったフルクとエルマンガルドだったが、その仲は非常に良好であった。
夫婦が連れ立ってロワール川で釣りをする姿は領民に何度か目撃されており、それはそれは仲睦まじげな様子であったという。
1070年初頭には長男、暮れには次女が誕生。長男には父と同じフルクの名が与えられ、次女はサラジンと名付けられた。
しかし、彼ら夫妻が牧歌的なおしどり夫婦であったのかと言えば、どうもそうではなさそうである。
アンジュー伯を継承後も、フルクの親族縁者には不審な死が多発した。多くはフルクの陰謀であると見られており、それらの陰謀を実行するにあたって妻エルマンガルドの助言を頼りにすることが少なくなかったという。2人は神にも悖る邪悪な陰謀を練り上げる、暗いパートナー関係でもあったのだ。
アンジュー家とその親族たちの間には、常に血を血で洗う争いが渦を巻いていた。
1073年、フランスきっての大貴族の1人、ブロワ家のシャンパーニュ公ティボーがフルクの旧領トゥーレーヌを要求し、アンジュー領に攻め込んできたである。
ティボーの息子・エティエンヌの妻はフルクの母がブルゴーニュ公に再嫁した後に生まれた異母姉妹であり、フルクにとってエティエンヌは義弟にあたる。
フルクは義父オセール伯を救援を願ったが、シャンパーニュ公にはブルターニュからの援軍もかけつけ、彼我の戦力差は2倍となった。アンジェ城を包囲する大軍を前に抵抗の無意味を悟ったフルクは、干戈を交えることなく降伏を決断した。アンジェ城が陥落し妻や子らが捕虜になる事態を恐れたとも言われる。
さらに不幸は続いた。フルクの長子、後継者たる小フルクが、姉の小エルマンガルドとの川遊びの最中、誤って溺死したのである。
妹の嫁ぎ先に領地を奪われ、さらに息子まで失ったフルクは、その怒りと無念をトゥーレーヌ領奪還へと傾けていく。
最初こそ王フィリップにシャンパーニュ公の横暴を訴えるという真っ当な手段に出たが、これはなんとフィリップにより門前払いを受けてしまう。ティボーがトゥーレーヌを自らの臣下に授与したため、これに王の権限では干渉できないというのだ。
しからば已む無し。フルクは自らの得意とする陰謀を駆使し、トゥーレーヌ伯領を取り返すこととした。手始めに密偵頭のアデレードに命じ、王国各地の秘密を探っては脅迫を繰り返し、軍資金を溜めていく。
失地より4年が過ぎた1077年、シャンパーニュ公ティボーが死去する。死因は老衰。「シャンパーニュの狼」と恐れられた猛将の死で、ブロワ家の結束が一気に揺らいだ。
ティボーの死を受けシャンパーニュ公となったフルクの義弟エティエンヌだが、家中をまとめられず反乱が勃発。ここが好機とフルクは陰謀の手を伸ばした。標的はエティエンヌの妻、フルクにとって異父妹のオーレアド。彼女の父・ブルゴーニュ公ロバートの介入を阻止するためである。
1079年、シャンパーニュ公エティエンヌは家臣たちに膝を屈し、わずか2年で公位を手放すことになった。跡を継いだ同名の息子・幼エティエンヌはわずか2歳、その兵力も財政もボロボロである。
機は完全に熟した。1080年1月、義父オセール伯と共にフルクは挙兵した。もちろん目標はトゥーレーヌ伯領の奪回である。
準備は万端、敗戦の余地のない戦い。だが、フルクに届けられたのは全く別の方角からの悲報であった。
第4子を妊娠していた妻エルマンガルドが、産褥で亡くなったのである。享年30歳。人を人とも思わぬ陰謀家のフルクにとって、彼女だけが唯一、無条件で心を許せる存在であった。
あまりの衝撃に、フルク自身もまた床に臥せった。侍医の診断は結核。伯は最愛の妻の後を追うのでないか、家中の人々は噂した。だが、侍医の適切な処置もあり、なんとか死の淵でフルクは踏みとどまった。あるいは、エルマンガルドの遺した子どもたちの成長を見届けるまでは死ねないという決意であったかもしれない。
フルクは倒れたが、シャンパーニュ公との戦争はアンジュー軍の第一の騎士・ジェルドゥイン卿の指揮のもと順調に進み、トゥーレーヌを見事陥落させる。フルク自身も結核と戦いながら前線に指示を飛ばした。シャンパーニュは新たにイタリアはジェノヴァ公と同盟を結ぶなどして対抗したが、遅きに失した。トゥーレーヌを奪い返せないまま1年以上の月日が経過した1081年9月、ついにシャンパーニュは降伏。
フルクは実に8年ぶりに旧領を奪還したのである。
勢力拡大と婚姻政策
苦楽を共にした妻エルマンガルドを失ったフルクであったが、このまま操を立てて男やもめで過ごすというわけにはいかなかった。男子はエルマンガルドの忘れ形見のフレデリク1人であり、もし彼に何かあれば男子の継承者がいなくなってしまう。
シャンパーニュ公が復讐戦に臨んでくることも考えられ、妻の実家であったオセール伯との同盟が失われた今、軍事的にもフルクの婚姻は必須だった。継承者になる可能性を考えると娘らを嫁に出すことも難しいため、フルクの結婚は非常に重要な同盟カードである。
慎重な吟味の末、白羽の矢が経ったのはノルマンディー地方のエヴルー伯リチャードの一人娘クラリモンである。といってもクラリモンはまだ9歳であり、輿入れ自体は早くても7年後となる。「獅子伯」の異名をとる優秀な軍人であり、1600に及ぶ兵士を動員できるエヴルー伯の軍事力が、この婚姻の最大の目的であった。
1083年には長らく患っていた結核も完治し、人心地ついたフルクは、さらなる勢力拡大に向けて動き出した。狙いは数年前、他国の宰相の失策によって請求権を手に入れていた、ブルターニュのナントである。
1084年9月、ブルターニュ公爵領を強力にまとめていた「健脚公」コナンを暗殺。
代替わりにより同盟を崩し、国内が動揺した隙を狙い、ブルターニュ公を継いだコナンの子ヒュイアルナルに宣戦を布告。援軍の獅子伯ウィリアムの武勇と軍略は素晴らしく、ブルターニュ軍をクラオンで補足し散々に撃破した。
その後もいくつかの戦闘を経て、1086年にはブルターニュ公の居城ヴァンヌ城が陥落。たまらずヒュイアルナルは降伏し、ナントを明け渡した。
ブルターニュ公との戦のさなかの1085年、長女エルマンガルド成人し、かねてより婚約していたバーリ伯ジョフロワの次男アレクサンダーを婿に取った。シチリアのノルマン人傭兵から身を起こしたコンヴェルサーノ家の青年は、高い軍事的才能と貞節さ、宗教的情熱を兼ね備えた立派な騎士と評判であった。夫婦仲は良好のようで、翌年にはフルクにとって初孫が誕生。フルクはこの孫にもエルマンガルドと名付けた。
1087年には次女サラジンも成人して結婚。
相手は北イベリアの三王国を統一したカスティーリャ王サンチョの腹心、カンペアドールと称された騎士、ロドリーゴ・ド・ヴィヴァールである。西欧でも最高の騎士を婿に迎え入れることになったフルクは大いに喜び、手ずから叙勲を与えたという。
一方でフルクは、密偵頭アデレードの娘アリックスを側に侍らせることが増えていた。フルクは後継男子が1人だけという問題を憂慮しており、庶子でも構わないから男子を増やそうとやっきになっていたようだ。
そして1088年4月8日、フランス王国に激震が走った。フィリップ1世が突然崩御。死因は何者かによる暗殺と見られているが、首謀者は不明であった。
王太子ルイがルイ6世として戴冠したが、年齢はわずか9歳。摂政がつき政務を見る必要があったが、フィリップが遺していた文書により、並み居る重臣たちを抑えてその座に指名されたのはアンジュー伯フルクだったのである。
フランス摂政フルク
幼王ルイ6世を補佐する評議会には、摂政にして密偵頭を兼ねるアンジュー伯フルクの他、宰相アキテーヌ女公エネス、家令トゥールーズ公ギレム5世、元帥ブルゴーニュ公アンリ3世といった面々が名を連ねた。いずれもフランス王国きっての実力者であり、摂政を務めても不思議でないメンバーだ。そうした貴顕たちの頭を飛び越えてのフルクの摂政就任が面白いはずはなく、評議会には異様な緊張感が漂っていた。
フルクも彼ら同輩たちと良好な関係を築くことは早々にあきらめ、摂政の専権を振るっては特別徴税と称して彼らの領地から金品を押収し蓄財に励んだ。
また密偵頭を使った脅迫も引き続き行われ、アンジェ城の倉庫には金貨が山積みにされていった。この頃、聖地への大規模な遠征が計画されつつあるとの噂があり、それに備えて資金を備蓄していたとも言われる。
1089年には、フランデレン公ボウデヴァイン6世が、我こそフランス王に相応しいと主張して蜂起。先王フィリップの従兄でありながら王国中枢から外され、不満を爆発させた結果であった。体制への不満を抱いた封臣たちを巻き込み、その兵力は4000にまで膨れ上がっていた。
簒奪も危ぶまれた反乱は、しかし翌年には収束する。反乱の首魁たるボウデヴァイン6世が急死したのである。自領で行われた狼狩りの現場でその報を受けたフルクは、平静そのものであったという。
フルクはまともに反乱軍と戦うよりも、密かにボウデヴァインに死んでもらうことを選択していた。フルクは毒を仕込んだ絨毯を調達すると、美辞麗句を添えてそれをボウデヴァインに贈った。その後、ボウデヴァインは目に見えて体調を崩し、折からの深酒も祟ってあっという間に亡くなってしまったのである。手を汚すことなく反乱を収束させ、摂政の地位を維持したフルクの鮮やかな手並みであった。
その頃、成人したクラリモン嬢がエヴルー伯領より到着し、アンジュー伯家の後妻として迎え入れられていた。フルクとの夫婦関係は当初あまり良くないように思われたが、ある頃から突如親密になった2人は頻繁に閨にこもるようになる。
一方で、フルクの公然の愛人であったアリックスの間にも男子が誕生。フンベルトと名付けられた男児をフルクは認知したものの、あくまで庶子としての扱いに留め置いた。アリックス自身も間をおかずフルクから遠ざけられ、後にポーランドから招かれた騎士と結婚することになった。
その後はフルクとクラリモンの寝室での関係は順調に進み、男子を3人立て続けに授かることとなる。長女エルマンガルドと次女サラジンもそれぞれに子を産み、フルクの血を引くアンジュー一門は着実に増えつつあった。
一方、伯領内ではまた別の問題も持ち上がっていた。次女サラジンの婿となり、元帥を務める「エル・シッド」ことロドリーゴに悪い噂が絶えないのだ。短い付き合いではあったが、彼の誠実さには疑いの余地がないことをフルクは確信していた。おそらく彼の才能や人格を妬んだ者たちのやっかみであろうことは想像に難くない。
フルクはロドリーゴの追放を提案する家臣たちを一笑に付し、変わらぬ信頼を約束すると元帥の地位を据え置いた。
そうして月日は過ぎていき、気づけばフルクも50の坂を迎えていた。迫りくる老いの影を振り払うように、ときには領内に現れたという白い熊を追い、またときには教皇に働きかけては隣国ポワティエ公爵の領有を認めさせるなど、フルクは精力的に活動を続けた。
そして1095年。若き教皇ニコラウス3世により、ついに聖地奪還の大号令が発せられた。世に言う十字軍の始まりである。
アラゴン十字軍へ
カトリック世界の全てが注視するこの大事業で戦果を上げ、あわ良くば我がアンジュー家が聖地の王に…そんな野望に燃え、勇んで参加を宣言したフルクであったが、問題が発生した。教皇が十字軍の進軍先として選んだのは、レコンキスタの炎渦巻くイベリア半島のアラゴン王国であり、当初の宣言で謳われていた聖地イェルサレムではなかったのである。
信仰篤きカトリック者として名高い人物であれば、あるいはイェルサレム行きを主張すれば話は変わったかもしれない。が、あいにくとこれまでおよそ模範的とは言い難い人生を送ってきたフルクが何を言ったところで、この遠征の目的を変えられる目はなかった。
打つ手はなかった。せめて勲一等の暁には、次女サラジンがアラゴン王の下風に立たぬように工作しておくのが精一杯であった。
腹の虫が治まらないフルクは、かねてより教皇から認められていたポワティエ公爵位の請求権を執行するよう、主君ルイ6世に奏上。ルイは難色を示したものの、フルクは珍しく弁舌を振るい宰相シャンパーニュ女公ガルセンドを説き伏せ、ついに王の首を縦に振らせたのである。
そうして1096年の暮れ、ついに十字軍が進発を開始。フルクもすぐさまそれに応え兵士を召集、ピレネーを越えイベリアへと乗り込むよう命じた。指揮を執るのはもちろん「エル・シッド」ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールである。アンジュー軍はどの諸侯よりも先んじ、サラゴサのタイファが治めるラリダ城を包囲。しかしこれは失策であった。
タイファ達が連合したムスリム軍の反応は素早く、予想以上の数の兵がアンジュー軍に向けて殺到する。後詰めの教皇軍やトゥールーズ軍は援軍に来ることもなく、アンジュー軍は5倍のムスリム兵を相手取り、惨敗。2000名のアンジュー軍のうち、生き残ったのはわずか60名に満たないという惨状であった。
壊滅的な敗戦であったが、フルクはこの一戦で諦めることはなかった。溜め込んだ資金で傭兵を雇い、再度部隊を編成したのち、1098年の年明けには再びアラゴンに乗り込む。
その後、ようやく足並みが揃った十字軍はムスリムの諸城を次々と攻略。
そして1099年8月、ムスリム軍はついには降伏し、アラゴンから全面撤退。教皇ニコラウス3世は、アラゴン南部一帯を領する「アラゴン十字軍王国」の建国を宣言し、フルクの次女・サラジンに手ずから戴冠したのである。
こうしてフルクの長年の戦いはイベリアの地で実を結ぶことになった。これよりアンジュー家の物語は、この異郷で女王の座についたサラジンを中心に語られていくこととなる…
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