三代目 アラゴン王 ウード1世 (1141~1183)
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1141年の欧州情勢
祖母サラジンの死を受け、新王ウードが王位を継承した1141年。ヨーロッパ大陸にははほぼ全域にキリスト教の布教が進み、異教は北辺のサプミやビャルマランドにわずかに残るのみ。
モルダヴィアのペチェネグ人、クリミアのクマン人といった遊牧民たちもそれぞれカトリック、正教を受け入れ、キリスト教世界の一員となっていた。
そのキリスト教世界の中心の一方が、神聖ローマ帝国皇帝・ルートヴィヒ1世。オストフリースランドの1伯爵でありながら皇帝に推戴された父・「慈悲帝」ゴッドシャルク1世から3年前に帝冠を受け継いだばかり。
直轄領こそ小さいものの帝国は大きな反乱もなく安定しており、皇帝の威信は確固たるのもになりつつある。
一方、キリスト教世界のもう一つの軸である東の帝国は、アルメニア地方をねらったセルジュークのスルタンを退けたものの、ドゥーカス家の帝位はアレクシオス=コムネノスによって簒奪されていた。
男子のなかったアレクシオスの跡は娘のピュリスが継いだが、アレクシオスの甥イオアンネンスにその座を追われることになる。さらにアナトリアの一部は継承によりグルジア王国に渡るなど、不安定な状態が続いていた。
「征服王」ウィリアム一世による征服以来、4代目を数えるノルマン朝イングランド。
大陸側のブルターニュ、ノルマンディーも抑え、安定した王国運営を実現している。現王トーマス1世は4年前に王位を継いだ学究肌の人物である。
イベリア半島では剛勇王サンチョ2世亡き後、再び北のヒメノ朝の王国が分立していた。タイファ諸国の間でもジリジリした国境の押し合いが続いており、イベリアの闘争の出口は未だに見えない。
一方、地中海を挟んだマグリブ地方では、サハラ砂漠を越えてガーナ、マリ地方にまで至る巨大な版図を有するアナバ朝が勢威を誇っている。ムラービト家の一族であったフェズ太守アナバは、王国内の権力闘争を勝ち抜き、以降30年近くこの大国の頂点に君臨していた。
この軍勢がジブラルタルを渡るようなことがあれば、イベリア情勢は大きく動くことになるだろう。
アラゴン王ウードと周囲の人々
こうした情勢の中、弱冠19歳でアラゴン王に即位したのがウード1世である。この年齢にして傑出した指揮官としての能力を見せており、個人的武勇も抜きん出ている、理想的な軍人である。
呵責なく剣をふるい、現地での収奪も辞さない冷酷さもまた、この時代の将帥としては必要な資質と言えるだろう。
妻はアラゴン家のチュアナ・アリオノールズ・ド・アラゴン。旧アラゴン王家の一員で、ウードの祖母サラジンに王位を追われたアラゴン王レミロの叔父・サンチョの曾孫にあたる。
チュアナの母アリオノールは、サラジンがアラゴンを攻撃した際に捕縛されたのち十字軍の宮廷で育ち、オック人の騎士ミロと結婚した。ミロとアリオノールの間に産まれたのが彼女である。チュアナもまたサラジンの宮廷で育てられ、年の近かったウードの妻としてサラジンに選ばれることになった。
新王を補佐する評議会には、アキテーヌ地方の名だたる諸侯がずらりと顔を揃えた。いずれも動員兵力3000に迫る実力者たちであり、彼らの支えはウードにとって不可欠な要素であった。
そして、このアラゴン王国で摂政として専権を振るうのが、ウェスカ伯レミロ2世である。ウードは父ジェルドゥインの夭逝によりわずか4歳でアラゴン公の称号を得ていたが、バルセロナの宮廷で養育されていたウードに替わって公領の運営を一手に握っていたのがこのレミロであった。
ウードがアラゴン王に即位すると彼はそのまま宮廷を掌握し、王国摂政として権力を握るに至った。
摂政レミロとの暗闘
ウード1世の治世は、摂政レミロ2世との権力闘争で始まった。長らく政務をレミロ2世に仕切られていたため、ウードの扱いはあくまでお飾りの王であり、役人たちは重要事項では常にレミロの意向を伺う有様であった。
生まれながらに王として育てられた野心家のウードにとって、この状況はあまりにも屈辱的と言わざるを得なかった。レミロの手より権力を取り戻し、誰がこの国の真の支配者なのかを証明する必要があった。
戴冠式を済ませたウードは、さっそく王妃チュアナを伴ってサンティアゴ巡礼に出発する。まずは聖界の方面に、己の支配者としての正当性をアピールする狙いであった。
また、巡礼の途中にイベリア各地の宮廷や城塞をめぐり、見聞を広める目的もあった。尚武を旨とする北イベリアのカトリック王国の宮廷での交流や、サラゴサやトレドといったムスリムによる先進的な城塞を検分した経験は、武人たるウードにとって大きな血肉となったという。
巡礼でウードが宮廷を留守にする間、レミロの専横は続いていた。同輩の領地の請求権を要求したり、財貨を巻き上げたりなどとやりたい放題である。
さらにレミロは教皇まで味方につけ、アラゴン王国の正当なる支配権を主張し始めたのである。もちろんウードはこれを黙殺したが、教皇までレミロの味方であるというのはウードにとっても衝撃的な事実であった。
レミロは神学の分野でも名を成し、聖界に多くに支持者がいた。司祭たちの中には「聖伯」などと彼を呼び慕う者もあり、ウードはこれらの声に対抗していく必要があった。
巡礼から帰還したウードは、さっそく巡礼者として得た名声を背景に聖界に働きかけ、王としての権力を確立を試みる。
これに対し、レミロはむしろウードとの関係の修復を望んだのか、あるいは油断を誘いたかったのか、公私にわたって接近を試みてきた。だが、妥協を望まないウードはこれを拒否。さらに、アラゴン公時代に約束したソブラルベ伯領のレミロへの引き渡しを無視するという事件もあり、二人の関係は破綻していく。
2人の確執は激化し、ウードによるレミロ暗殺が計画されるほどであった。その計画にはレミロの妻マルガリーダも協力していたという。
自らの思うようにならぬ王国の状況に、ウードは溜まった苛立ちを封臣にぶつけるしかなかった。
しかし、この暗闘は意外な形で終わりを告げる。1144年5月22日、突如としてレミロの身柄をバランシヤ*1伯アスパトが拘束。レミロからその地位を引き継いだと主張し宮廷を掌握すると、新たな摂政の地位に収まったのである。
このアスパトこそ、6年前、ウードの成人の宴で女王サラジンと友情を結んだ、あの青年であった。
新たに摂政となったアスパトは、前任者のレミロ2世とはうって変わり、摂政として忠実な仕事ぶりを見せた。同輩の封臣たちの目線を気にすることなく、摂政の委任業務を堅実にこなすと、その成果を着服することなく全てウードに差し出したのである。
文化の違いにこだわらず、君主を敵対者ではなく共存者とみなす、アンダルシア人特有の気風によるものであった。
こうして、レミロ2世の失脚とアスパトの台頭により、アラゴン宮廷での王と摂政の角逐はひとまず沈静化し、穏健な共同統治体制が確立した。とはいえ未だに摂政の権力は強い。摂政が忠実であるうちに、少しずつ王の権威を取り戻しく必要がでてくるだろう。
オック大反乱
私生活でも、この時期のウードの人生は上向きであった。王妃チュアナとの仲は睦まじく、1145年4月には待望の長女アリエノールが誕生した。アリエノールは生まれつき血友病を抱えていたものの、なんとか幼少期を乗り越え、すくすくと成長していった。
しかしそんな1146年5月、事件が勃発する。かねてより、フランス系のアンジュー王朝の支配に不満を抱えていたオック人民衆が一揆を画策。蜂起に走った彼らに、なんとトゥールズ・ガスコーニュ・プロヴァンスの3公爵が同調するという事態になったのである。
いずれも評議会に参加する強力な公爵たちであり、彼らの兵力を加えて反乱軍は1万2000にまで膨れ上がった。
対するウード側は、異父弟のノルマンディー公ヒューの援軍を合わせても1万。兵力はやや反乱側が優勢であった。
合流されてはこちらが不利と見たウードは、ノルマンディーからの援軍を待たずラングドック地方を横断、セヴェンヌにてまず民衆の指導者エマニュエルの軍を粉砕する。
つづいてウードは軍を南に向け、ニームでプロヴァンス軍を捕捉。湿地に足を取られたプロヴァンス軍をことごとく討ち取り、4000近くのプロヴァンス兵の屍を沼に沈めるという大勝利を得た。
アラゴン軍はさらに北上し、ガスコーニュ・ラングドッグの両軍あわせて7000が集結していたジュヴォーダンで決戦に及んだ。
この戦いでウードは采配をアルバラシン伯フライに一任。反乱に荷担したガスコーニュ公に替わって元帥に就任したこのムスリム軍人は、軍事への深い洞察と、森林の環境を生かす特殊な戦術に長けていた。
ウード期待に見事に応えたフライは反乱軍を散々に粉砕。この勝利で反乱の趨勢は一気にウード側に傾いた。
その後も各地で反乱軍は敗走を続け、1147年7月、ついに反乱軍が降伏。しかし、反乱に加担した諸侯を罰し所領を没収しようとしても、宮廷の役人たちは全くその意を受けようとはしなかった。
結局、反乱に加担した3人の諸侯たちは身代金のみで放免されることとなった。反乱鎮圧によりウードは軍人としてその力を見せつけたものの、王としては未だに無力であることを痛感したのである。
功臣の運命
オック人の反乱を制圧したウードは、王の権威を確固たるものにするため、精力的に行動を開始する。
反乱したアキテーヌ地方でのグランドツアーを開催することで威信を示し、摂政の権限を少しずつ削っていく。その一方で摂政アスパトの娘と異母弟ウィリアムの縁組を行い、バレンシア公の称号を与えるなど、懐柔にも手を尽くし、アスパトの反発を防いだ。
1151年には対外戦争を開始。アーミル家のシャジャラが治めるムルシア地方に進軍すると、アラカントでの初戦でシャジャラを捕え、国境一帯の領地を征服。
さらには返す刀でカスティーリャ王国にも仕掛け、長らくカスティーリャに抑えられていたアラゴン公領の中心都市・サラゴサを奪取する。さらには名門ヒメノ家の旗を奪い取るという余録もついてきた。
ようやく順調に王として歩み出したかに見えたウードであったが、1153年12月、またしても驚きの報せが届く。なんと、モリナ伯ジュールデンの策動により、今度はアスパトが摂政の地位を奪取され、囚われの身となってしまったのである。
ウードは身代金まで用意しアスパトの解放を要求するが、アスパトをライバルとして強く敵視するジュールデンはこれを拒否。ウードは密かに刺客を放ち、ジュールデンを始末することでアスパトの命を救おうとするが間に合わず、翌年7月、アスパトはジュールデンの手により処刑されてしまったのである。
9年にわたりアラゴン王国の共同統治に務めたパランシヤ公アスパトのあっけない最期であった。
アスパトとジュールデンの間には、浅からぬ因縁があった。かつてアスパトがモリナ伯領の牧草地開発を助力しており、その縁から2人は友情を結んでいたのだが、何とその恩義にも関わらずジュールデンはアスパトの友情を裏切ったのである。それ以来、非常に険悪な関係が続いており、ついにはこの事態を招いたようだ。
摂政に収まったジュールデンは、ウードが放った刺客の手を逃れ、しぶとく権力の座にしがみつく。ウードはまたしても摂政との暗闘の日々を迎えることになるのである。
対イングランド戦役
ウードは戦士としての己に強い自負を抱いていた。配下の騎士たちの中で特に腕自慢の2人が、どちらが王国一の戦士かを巡って諍いを起こした時は、自ら剣を取り彼らを叩きのめすほどであった。
そんなウードにとって、自らの武威を示す絶好の機会が訪れた。異母弟であり同盟相手でもあるノルマンディー公ヒューが、イングランド王トーマスに反旗を翻し、ウードに援軍を求めてきたのである。
ノルマンディー軍とアラゴン軍は合わせて13000。一方のイングランド側にはスウェーデン王バルドルが味方し、その兵力は15000。ふたたび兵数不利の戦いとなった。
ウードはアラゴン軍をノルマンディーに集結させると、一挙にドーバー海峡を押し渡った。ケントに上陸したアラゴン軍はイングランド軍の迎撃を受けるが、アルバラシン伯フライの指揮によりこれを粉砕。アラゴンの誇るカバジェロ軽騎兵が、イングランド軍の重歩兵を次々と馬蹄にかけ、槍の餌食にしていった。
余勢を駆ったアラゴン軍はサセックスにあるルイス城を陥落させる。その一方、軍を立て直しスウェーデン軍と合流したイングランド軍は、ノルマンディーに逆上陸。アヴランシュ城を取り囲んだ。
ウードは再度ドーバー海峡を渡ると、アヴランシュを攻囲するイングランド=スウェーデン連合軍に自ら軍を率いて攻めかかった。またしても縦横無尽に戦場を駆けたカバジェロ騎兵隊が猛威を振るい、数に勝るイングランド勢に対し大勝利を収める。
追撃をかけたアラゴン軍はディエップ市でスウェーデン軍を捕捉し、これを殲滅。スウェーデン王バルドルの本営に押し入り、スウェーデンの軍旗を奪い取った。
こうして戦争は1年半で決着し、敗北したトーマスは退位させられ、ウードの武名は西欧に大きく鳴り響いた。
一方国内では、1157年3月に摂政モリナ伯ジュールデンの暗殺に成功。2度にわたり暗殺をしのいだジュールデンだったが、さすがに悪運尽きたようだ。
後継の摂政はかつて宰相も務めた廷臣ループ・フォン・フランケン。能力は高いが忠誠心は低かっため、ウードは彼の排除も画策する。
なお、同年9月には初代摂政のレミロ2世が死去している。王位請求派閥を作るなどの動きを見せることはあったものの、結局アラゴン王国の政治の主流に戻って来ることはなく、故郷ウェスカで静かに息を引き取った。
1158年にはアル=サルクを再攻撃し、ムルシアを完全に征服。これにより、かつてバレンシア地方に覇を唱えたアル=サルクは大陸の領土をすべて失い、バレアレス諸島に逼塞する。
そして同年、またしてもノルマンディー公ヒューから援軍要請が届いた。
退位したイングランド王トーマスの跡を継いだ新王リチャードに対して、ブルターニュ公と手を組み独立戦争を仕掛けたのだ。
再びノルマンディーに出兵したウードは、ジゾーの戦いでイングランド軍を粉砕。続くボルオエの戦いではリチャード王を捕虜にし、あっさりと降伏させてしまった。
代替わりを経てさらに弱体化したイングランド軍はもはやウードの敵ではなく、アラゴン王国の勢威は大国イングランドを名実ともに上回っていたのである。
また、この戦争の裏で摂政ルーボーの暗殺に成功。後任の摂政は王妃チュアナがついた。この頃には摂政の権力はほぼ完全に制限され、摂政は王の補佐役として限定された政務をとるという形で定着していた。
ウードの即位以来、長く続いた権力の確立のための戦いはようやく終わりを告げたと言える。
だがその一方、この頃からウードには奇矯な言動が目立ち始めた。幻覚や幻聴に悩まされることが増え、時折支離滅裂な発言をしては家臣を戸惑わせた。長い権力争いと戦場暮らしは、徐々にウードは精神の平衡を狂わせていたのかもしれない。
イェルサレム十字軍
1160年12月、教皇ベネディクトゥス10世よりの使者が各地のカトリック諸侯の宮廷へと発せられた。半世紀以上前、アンジュー朝アラゴン王国が建てられるきっかけとなった大聖戦を、再び招集しようというのである。世に言う第2回十字軍の始まりである。
ベネディクトゥス10世が十字軍を差し向けようとしたのはつまりアテネやペロポネソス半島からなるヘラス地方、つまりはビザンツ帝国である。
当時のビザンツ帝国は内乱の末にコムネノス朝が倒れ、クレタ公であるウラノス家のバルダスが帝位を簒奪していた。だがこのバルダス、なんと密かに異端であるボゴミール派を信仰していたことが明らかになったのである。
このような新帝を諸侯が認めるはずがなく、諸侯や民衆は次々と蜂起。帝国はその全土が内乱の炎に包まれていた。
この異端皇帝の討伐の名のもとに、正教会の中心地たるギリシアにローマンカトリックの橋頭堡となる王国を打ち立てることが、教皇の狙いであった。
だが、ウードはこのギリシャ遠征に待ったをかけた。帝国ではドゥーカス家の請求者を押し立てる反乱軍が優位な戦いを展開しており、異端の偽帝は早晩倒されることであろう。そうなれば名目を失った十字軍は空中分解せざるを得ない。
それよりも60年前、初めて十字軍が提唱されたときに掲げられた、聖地イェルサレムの奪還を今こそ実行すべきであると、ウードは教皇に対し強く主張したのである。
アラゴン王として確固たる名声を築き上げていたウードの言葉を受け、教皇は十字軍の遠征先を聖地イェルサレルムに決定する。ウードの他にはデンマーク王エリク2世やスポレート公アルベルト・アッツォ2世、マグデブルク大司教モーリツといった諸侯が参集。
そして1062年4月、総計5万の十字軍戦士たちが各々エルサレムへ向けて遠征を開始した。
イェルサレムを治めるのはイスマイール派のファーティマ朝。11世紀後半、腐敗の果てに一度は没落した王朝であったが、12世紀に入るとカリフ・アンドロス1世のもと、エジプトからシリア全域に至るかつての勢威を取り戻しつつあった。
当代のエルサレムの主はアンドロス1世の次男にあたるスルタン・アガトニコス。父アンドロス1世よりエルサレム周辺を分割相続で受け継ぎ、独立勢力を保ちながら、アレクサンドリアに座す甥のカリフ・アンドロス2世とは同盟を結び、協調姿勢をとっていた。
十字軍襲来の報を受けたとき、彼らはエジプト周辺からスンニ派諸侯を追い出すべくジハードを進めている最中であった。アガトニコスとアンドロス2世はイェルサレム防衛を呼びかけたものの、ムスリムの中でも多数派とは言い難いイスマイール派のカリフの声に答えるものは少なく、兵力は十字軍の1/3にも満たなかった。
ウード率いるアラゴン軍を筆頭にした十字軍はキレナイカ地方に上陸し、現地の城塞を瞬く間に陥落させ橋頭堡を確保。10月にはカリフの居城であるアレクサンドリアを包囲し、さしたる抵抗も受けずこれを陥落させた。
これを見届けたウードは明けて1063年2月、アラゴン軍を地中海からレバント方面に上陸させ、2ヶ月の包囲戦ののちにヤッファの要塞を陥落させる。
そこへようやくファーティマ朝の軍が海上より姿を見せた。ヤッファ奪還を狙って上陸してきた彼らをウードは5000の兵を率いて迎撃。さらに諸侯の後詰めも到着し、上陸後で態勢の整わぬファーティマ朝の軍は完全に壊乱状態になった。なんと敵軍の総勢7500の兵士のうち生き残りは20名という、十字軍にとって歴史的な大勝利であった。
そして1163年9月、ファーティマ朝の軍勢は全面的に撤退。イェルサレム周辺に加え、アレクサンドリア、カイロを含むエジプトの中心地を支配するカトリック王国の樹立が宣言され、その王にはウードの長女アリエノルが選ばれた。
ウードは遠く中東の聖地に、アンジュー家の旗を見事に打ち立てたのである。
栄光の頂点へ
イェルサレム十字軍に勝利した後も、ウードは戦いの日々を過ごしていた。
1164年には娘アリエノールからの要請に答え、キレナイカ地方のスンニ派勢力を駆逐。続いて1166年にはノルマンディー公のブルータニュ侵入を支援した。
さらに1167年、バレアレス諸島の請求者であるアーミル家のアリーと友誼を結ぶと、彼の請求権を主張しアル=サルクのタイファに対して3度目の侵攻を行った。
まともな抵抗もできずに敗北したアル=サルクは、この戦により最後に残されたバレアレス諸島の領地も全て失い滅亡。これを受け、3年後の1170年、ウードはヴァレンシア王位を宣言した。
ヴァレンシアの人々はウードの姿に、かつて「カンペアドール」の異名をとった彼の祖父ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールの面影を見たという。
また、1168年にコルドバで開催された大トーナメントに赴き、自ら諸肌を脱いでレスリングに参加。その後のチェス大会と競馬では見事優勝を成し遂げるという大活躍を見せた。
バレンシアの宮廷では、武具職人のロザリンド・ド・エヴルーが見事な武具を産み出し、王国の威信を彩った。
1170年には嫡子ウードの結婚式が盛大に執り行われた。相手はトゥレイトラ太守ユースフ2世の3女タカマ、そして祭司を務めたのは教皇イオアンネス19世である。
ムスリムの花嫁の結婚式を教皇が執り行うというまさしく前代未聞の光景であったが、アラゴン王ウードの意向であればこのような無茶な要請でも教皇は無視出来ないことを意味していた。
こののち、ウードは地中海での勢力拡張を狙い、1172年にはカリャリ判事、アルボレーア判事といったサルディーニャの諸侯を臣従させ、サルディーニャ全島を支配下に収めサルデーニャ公を名乗る。
1175年にはシラクサを征服し、シチリア島にも足掛かりを得た。
地中海に勢力を広げる一方、イベリア方面では軍事活動を停止し、多方面に婚姻外交を展開した。
先の結婚式でトゥレイトラ太守の娘タカマを娶った長男ウードのほか、次男ウスタシュはセンシールのマリクの娘アイザと、次女ジャンヌはレオン王ガルシア2世と結婚。
さらにウードは庶子レイモンドをクルドゥバ共和国の市長ガジの長男サンヨと、五男フランソワをカンタブリアを支配するタイファ・グディエレの長女エヴァと婚約させた。
この婚姻政策の結果、イベリア半島では、ナバラ・カスティーリャの王位を有するオック人女王ベルタを除く、全ての勢力がウードと婚姻を結ぶに至った。
このウードの婚姻政策は、イベリア半島の歴史を大きく変えることとなった。アラゴン王ウードの圧倒的な威光の元、縁戚で結ばれたイベリアの各勢力は流血の歴史を水に流し、相互の信仰と文化を保証しあうことを宣誓したのである。
ウマイヤ朝の上陸と西ゴート王国の滅亡以来、イベリア半島を覆っていた長い闘争の歴史に、終止符が打たれた瞬間であった。
これにより、かつては冷酷王、あるいは盗賊殺しなどと恐れられたウードは一転して公平王と称えられることとなった。
十字軍を勝利に導き、イベリアの闘争を終結させたウードの名は、生ける伝説として地中海世界に刻まれたのである。
しかし、この頃のウードの栄光には影もまたつきまとっていた。ウードの精神を蝕んでいた狂気の影響は続いており、かつては天を衝くばかりであった覇気が影を潜め、自儘に家臣や家族を振り回すようになった。
1175年には、長女アリエノルが1歳の息子イルドベールを残し、遠くエルサレムの地で死去。十字軍女王としての重圧にさらされた彼女はハシシに頼るようになり、最後は生まれつき患っていた血友病により血が止まらないまま失血死してしまったという。
1179年には、バルセロナでトーナメントの開催中、次男ウスタシュが食あたりで亡くなったとの知らせを受ける。オーヴェルニュ公爵領を任せ、いずれはアキテーヌ王国を継がせようと期待していたこの次男の死は、ウードを大きく落胆させた。
ウスタシュの死によりアキテーヌ王候補となった3男ジェルドゥインのため、ウードは教皇に働きかけ、プロヴァンス公を破門させた上でその領地を没収。ジェルドゥインを新たなプロヴァンス公とし、その地盤を固めさせた。
自らの名を与えた長男のウードは、弟ウスタシュの死を受けて預かったオーヴェルニュ公領を無難に治めている。
四男ジェローはワラキアの女王と、五男フランソワはクレタ女公と結婚しそれぞれ1児を儲け、アンジューの血脈を西欧の外にも広げる役目を果たしていた。
相続の態勢を整えたウードは安堵したのか、あるいはここまでが彼の天命であったのか。1183年1月のある日、ウードは心臓の不調を訴え、そのまま息を引き取った。61歳であった。
40年以上に及ぶその治世の中で、十字軍を含め18の戦役に参加し、また19の合戦で自ら指揮をとり、その全てに勝利を収めた。傀儡王として即位しながら、剣をもって数多の栄光を積み上げた武王であった。
死後、その広大な王国は分割され、アラゴン王位を長男ウード2世が、アキテーヌ王位を三男のジェルドゥインが継ぐこととなる。
二代目 アラゴン十字軍女王サラジン その2 (1108~1141)
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バルセロナ攻略
父フルクと長い戦争は彼の死に伴いようやく終結したが、遠征軍がアルバラシンの宮廷に帰還するにはもう少し時間がかかることになった。講和と前後してトゥールーズで今度は分権反乱が発生し、この鎮圧にも手を貸さねばならなくなったのだ。反乱鎮圧が完了し、兵士たちが故郷に帰還したのは1109年9月のことであった。
ようやく人心地がついたアルバラシンの宮廷では、サラジンの長子オトゥンの縁談が進められていた。
イベリアの地ではムスリムとカトリックの婚姻も珍しくはないということで、バタルヨースのタイファであるアル=ムアッザムの娘サアーダも候補に上がったが、最終的にはフランスから、ブルゴーニュ公爵ユーグの娘ジャンヌに白羽の矢が立った。
2年後の1111年6月、サラジンは王位の継承法を改定。西ゴート王国法の流れをくむカタルーニャの法律を採用し、王位継承者がより多くの直轄領を継承するものとした。
将来に向けて国家の体制を整えたサラジンは、外遊も兼ねてコルドバで開催されていたトーナメントを訪問。ムスリムの諸侯とも交流を持ち、競技に参加した騎士たちの活躍に目を細めていたという。
トーナメントより帰還した1112年4月、サラジンは軍の召集を命じた。相手は10年前の戦いでアラゴン王レミロ2世。今度はバルセロナ地方全体の支配権とレミロ2世の国外退去を要求した。アラゴン王国の息の根を止め、名実ともにアラゴン唯一の支配者となることがサラジンの望みであった。
途中で小規模な農民反乱などもあったものの、弱体化著しいアラゴン王国はまったくサラジンの相手にはならず、年が明ける前にバルセロナが陥落。すべての称号を失い、無位無官となったアラゴン王レミロ2世はいずこかへと落ち延びていった。
さらにサラジンは、現地貴族の雄・バルセロナ家の当主ペレ・ラモン2世に対し、以前に彼らの宰相から言質を得た請求権を盾に称号の剥奪を通告。憤激したバルセロナ家は反抗を試みたものの、こちらも1年もたず降伏した。
サラジンはこの地方の中心都市バルセロナを含む所領の大半を没収。バルセロナ家にはピレネー沿いのルサリョー、サルダーニャの2領のみ領有が許され、大きく没落することになった。
この一連の戦争の結果、カスティーリャ王国の支配下にあるサラゴサ近辺を除き、アラゴンのほぼ全域がサラジンの手に落ちることになった。
この後、サラジンは宮廷をアルバラシンからバルセロナに移す。カルタゴやローマの時代から栄える地中海有数の港湾都市であり、交易路を通じて世界の様々な知恵や情報が集まるこの地こそ、自らの王国の首都に相応しいとの考えであった。
大国への道
1113年10月、遷都を終えたバルセロナのサラジンの宮廷に、驚きの知らせがもたらされた。トゥルーズ女公アダライダから、条件さえ折り合うなら、サラジンの封建契約を結び、家臣として忠誠を誓おうとの密かな打診である。
このとき天然痘を患っていたアダライダは、自らが命を落とした場合に領地を受け継ぐ幼い子らの庇護者を探しておく必要があった。
先の2つの戦役で忠実に同盟を守ってくれたサラジンに強い感銘を受けていたアダライダは、フランス王国が崩壊した今、仰ぐべき王、先祖重代の土地の庇護者はサラジンをこの十字軍の女王を置いて他にないと判断したのである。
翌年、天然痘から無事回復したアダライダは、早速バルセロナの宮廷に参上。豊かな南仏の産物や財物をサラジンに献上し、その忠誠をアピールした。サラジンも彼女に家令の地位を与えてこれに応えたのである。
この情勢を受け、サラジンはトゥルーズの隣国、ボソン家のプロヴァンス公ベルトラント3世にも封建契約を打診する。サラジンの評判に脅威を抱いていたプロヴァンス公はこれを受諾した。
こうしてアラゴン十字軍の領域は南仏に大きく伸長。西アルプスからイベリコ山系に至る大国へと躍進したのである。
再婚と分家設立、アンジュー王朝の長へ
一方、この十字軍王国の躍進の影で、ポワティエのアンジュー本家、弟フレデリクのもとでは問題が起きていた。
1112年9月、父フルクからソミュール伯領を相続していたサラジンの異母弟レーモンが、わずか16歳で急逝。家長であるポワティエ公フレデリクが、これをオーストリア女公ヴァルプルガの仕業であると断定し、アンジューの家名にかけてバーベンベルクの犬に復讐せなばならないと気炎を上げたのだ。
時間を置いて頭を冷やしたのか、翌年1113年の暮れにはこの宣言をとりやめたフレデリクだったが、この弟の行動にサラジンは危険なものを感じた。
遠く神聖ローマ帝国の東方辺境を治めるバーベンベルクと本格的な争いとなれば、お互いに刺客を送りあう戦うことにとなる。弟フレデリクは善人ではあるが、このように短慮な振る舞いで大事な息子たちを危うい目に合わされてはたまらない。
そのためにはサラジン自身の家を創設し、アンジュー王朝の中でも自立した存在であることを内外に示す必要がある。だが、それには条件があった。婿取りである。配偶者を持たない者が家を建てるなどと言っても、誰もその言葉に納得しないのである。
サラジンが再婚を考えるようになったのはこういう事情からであった。とはいえ、40の坂を越え、これ以上子供を作るつもりもなかった彼女に、今更若い夫を迎える意思はなかった。
あれこれと探した末、見つけたのがカスティーリャの没落貴族ララ家のロレンツォ・ムニオス・デ・ララであった。同盟を増やしすぎれば子どもたちの縁組の妨げになるが、平民との結婚はサラジンの威信に傷がつく。その点で没落貴族というのは都合が良かったのである。
ロレンツォは放蕩者として知られていたが、その好みは女ではなく男の方を向いていたという。後に彼の不貞が疑われたこともあったが、サラジンは特に関知することもなく自由にさせた。
夫が誰と情を交わそうと興味はないと言った風情であり、ロレンツォもそれを承知で、放蕩しつつも共同統治者としての役割は粛々とこなすという、奇妙な信頼関係がこの夫婦には成立していたようだ。
そうして分家設立の準備を進めていた、バルセロナ遷都の翌年1114年4月のこと。サラジンの次男で、前年に成人したばかりのジェローが何者かに殺害されるという事件が発生。犯人は判然としなかったが、サラジンはバベンベルク家との抗争の影響を疑っていた。
やはり、ポワティエのアンジュー本家に采配を握らせていてはいけない。決心を固めたサラジンは、この直後より「アンジュー=サラジヌス家の家長」を名乗るようになる。
十字軍の女王として多くの兵力を抱えるサラジンの言葉はアンジュー本家の者たちにも重きをもって受け入れざるを得なくなり、彼女こそアンジュー王朝の当主と世間に認識されるようになったのである。
さらなる拡張
これ以降も、南仏諸侯へのサラジンへの臣従は続いた。
1114年11月にはガスコーニュ公アトンがサラジンに忠誠を誓う。
さらに1116年には、アルマニャックを抑えていたアキテーヌ公アリャスが死去し、庇護者を失ったアルマニャック諸侯は続々とサラジンに臣従した。
1117年には、サラジンは初めてムスリム勢力と戦端を開く。バレンシア方面に割拠するアンダルシア人のラワス一族に対し、従属を要求し宣戦を布告した。3年の時間をかけてじっくり攻略し降伏させると、サラジンは宗教的保護と引き換えに彼らの忠誠と貢納を約束させた。
継承危機
拡張を続ける十字軍王国だが、一方で王家には悲劇が襲いかかっていた。
バレンシア攻略戦が展開していた1118年、長男オトゥンが若干23歳で死去したのである。
バルセロナに遷ったサラジンは、自分に替わってアルバラシンをはじめとした西アラゴンの旧領をこのオトゥンに治めさせていた。またオトゥンは如才なく人と交流し弁舌を振るう外交の才があり、サラジンは十字軍王国の宰相を務めさせるほどに彼に期待をかけていた。
だが、肥大化する十字軍王国を引き継ぐ未来をあまりに重く感じていたのか、それとも領主としてあるいは宰相としての務めに耐えかねたのか。オトゥンはいつの間にか極度のストレスを溜め込み、健康にも影響が出るほどであった。
そして気分転換にと出かけた狩猟旅行の途中で事故により重症を負い、さらに医師の治療ミスが重なった。
継嗣として期待を寄せ、領地の他に宰相の職も任せていた長男オトゥンを突然失ったサラジンの衝撃は計り知れないものがあった。
さらに厄介なことに、オトゥンには嗣子がいなかった。4年前に死去した次男ジェロームに続く夭逝に、サラジンとロドリーゴの血を受け継ぐのは3男のジェルドゥインだけになってしまったのである。
このときサラジンは46歳、今更望んでも子供は難しい年齢であった。
ジェルドゥイン夫妻の様子に気をもみながら見守っていた1121年の暮れ、ようやく吉報が届く。ノルマンディー女公アドラが無事にジェルドゥインの子を出産。ウードと名付けられた男子は健康そのものことでった。
この時期はアンジュー=サラジヌス家のみならず、アンジュー一門全体で不幸が相次いでいた。
1119年にはサラジンの異母弟のトゥーレーヌ伯ギレムが戦死、1120年には同じく異母弟のアンジュー伯ジョフロワ4世が食あたりで逝去。どちらも27歳の若さで、ジョフロワのほうには嗣子すらなかった。
そして1124年には本家の長、ポワティエ公フレデリクまでが、傷が悪化し44歳で死去。ポワティエ公位を継いだのはわずか4歳の一人娘エルヴィであった。
そして1226年。残された家族の健康と長寿を祈るため、サンティアゴ巡礼に向かっていたサラジンのもとに、早馬が到着した。届いた報せは、兄オトゥンの領地を引き継いでいたジェルドゥインが溺死したというものであった。奇しくも兄オトゥンと同じ、享年23歳。サラジンは3人の息子、全てを失ってしまったのである。
これで残されたアンジュー=サラジヌス家のメンバーは、サラジンと孫のウードだけとなった。王国が拡張を続けていく中、アンジュー王朝の継承の糸は限りなく細くなっていったのである。
地中海進出
王家の継承危機をよそに、サラジンの王国は成長を続けていた。
サラジンの直轄領となったバルセロナ周辺の支配もようやく落ち着いた1124年、サラジンは教皇に資金を要請し、正式にアラゴン王として戴冠した。以降、サラジンは主にアラゴンの女王と名乗るようになる。
翌1125年にはサルディーニャ島の北端のガッルーラを征服し、地中海への橋頭堡を得た。
1129年には、弟フレデリクの跡を継ぎポワティエ女公になっていた姪エルヴィを臣従させる。先年に臣従していたアキテーヌやオーヴェルニュを加え、アキテーヌ全域からアンジュー家の本貫地であるロワール川流域まで抑えることになった。
1130年には、シチリアのバーリを請求してシチリア王国に宣戦する。ここはもともとサラジンの姉エルマンガルドの婿アレクサンダーが治めていたが、シチリア女王によって剥奪の憂き目にあっていた。
さすがにシチリア王国はあっさり敗北することはなかったものの、ここも国力差は歴然。2年後には降伏し、イタリア半島にもアラゴン王国の足がかりが築かれることになった。
一方、バルセロナの宮廷では、王配ロレンツォ・デ・ララが暗殺されるという事件が起こった。一年後、事件はロレンツォを敵視していた当時の密偵頭アロフであったことが発覚、サラジンは彼女を捕えて処刑した。
ロレンツォを愛することも、前夫ロドリーゴのように友と思うこともなかったサラジンであったが、それでも相互に適切な距離感で外向きの関係を維持してくれたロレンツォの死に思うところがあったのかもしれない。
1133年には、影に日向に彼女を支えてくれた友、女官を務めていたアリックスが死去。享年62歳。悪童より助けてくれた幼い日より50年、立場が変わっても常に変わらぬ友情を貫いてくれた、無二の親友であった。
それでも葬儀ではサラジンは気丈に振る舞った。まだここで親友の後を追うわけにはいかなかったのだ。
晩年
これ以降、サラジンは王国の拡張を控え、バルセロナ周辺の領土開発に注力していくことになる。地図上では大国になったアラゴンだが、隣国のイングランドや神聖ローマ帝国に比べ兵力で劣っており、内治を整える必要があった。
唯一の継承者である孫ウードに少しでも良い状態で王国を引き継ぐべく、サラジンは領土の発展に没頭した。
ウードはサラジンの手元、バルセロナの暖かな気候の宮廷で養育され、すくすくと成長。思いやりに欠けるところはあるものの、サラジンに良く似た気宇壮大さ、勇敢さを備え、優秀な武人王となる片鱗を見せていた。
1136年、14歳になったウードに、サラジンは縁談を用意する。婚約者はウードより2歳年上のチュアナという名の娘で、こちらもサラジンの宮廷で養育されていた、かつてサラジンに王位を追われたアラゴン王家に連なる娘である。
国内外の大諸侯との同盟などが望めないこの縁談については、アラゴン家との婚姻を通じて、ウードの正当性を強化する狙いだったのではと言われる。
1138年、ウードが成人する。ウードは軍学の方面に高い才能を発揮し、立派な戦士・軍人として王国を導いていけるだろうと誰もが太鼓判を押す、そんな男に成長した。
孫の成長を大いに喜んだサラジンは、ウードの成人を祝う宴を開催。ここまで張り詰めた思いでウードの養育と国内整備に励んでいたサラジンだが、このときばかりはリラックスした様子で、立派に育った孫の姿に目を細めていたという
この宴で、サラジンは宴席を共にしたある人物と親しくなった。バレンシアを治めるラワス家のアスパトという、敬虔なムスリムの青年である。サラジンが彼の手を取り、孫への忠誠と助力を願う姿は、女王というよりも普通の老女のようであったという。
この日以降、サラジンは緊張の糸が解けたのか、一気に老け込むようになった。あれだけ好んでいた遠乗りを行わなくなり、重圧を溜め込んでもじっと耐え忍ぶかのように目を閉じるばかりであった。
精神的にも肉体的にも精彩を欠く場面が目立ち、家臣たちの目にも色濃い老いの影がはっきりと映るようになった。
そして1141年6月19日、十字軍の指導者にしてアラゴン・アキテーヌの女王サラジン・ド・アンジュー=サラジヌスは、バルセロナの宮廷で眠るようにして亡くなった。享年69歳。
父フルクの野心のために宮廷の貴婦人から十字軍の女王となり、異郷の地で王として多くの文化・宗教の民を従え、ついには地中海に広がる大国を築き上げた偉大な女性であった彼女は、その後継者に王国を譲り渡す最後の役割を見事に全うし、神のみもとに旅立っていったのである。
次回三代代目ウードの治世へ続く
二代目 アラゴン十字軍女王 サラジン その1 (1099~1108)
※今回からVer1.9.1です。また人物UIの変更MOD「Personage」を使用しています。
前回
イベリア情勢とアラゴン十字軍王国
1099年のイベリアは、激しい闘争の嵐の中にあった。カトリックやムスリムの諸侯が入り乱れ、生き残りをかけてぶつかり合う、敵意の時代の中にあった。
アラゴン十字軍をとりまく諸勢力の中で最も強大なのは、イベリア北西部に大きく広がるカスティーリャ王国の「剛腕王」サンチョ2世。3つに分裂した父の王国に加えてナバラまで統一し、大西洋を越える形でセビリアを飛び地として支配する、北イベリアの覇者である。
十字軍の北東部、ピレネー山脈に沿うように位置するのがアラゴン王国。教皇の号令は本来この王国を救済するためのものであった。ここを統べる王の名はこちらもまたサンチョ。アラゴンの地の支配を巡って十字軍と対立するのは必然の流れであった。
南方には後ウマイヤ朝の崩壊後に分立したムスリム国家、いわゆるタイファが割拠している。その中でも最大の勢力がトゥレイトゥラ(トレド)のイスマイールである。十字軍と戦った疲弊があるが、回復すればその兵力はカスティーリャ軍に勝るとも劣らない強国だ。
こうした実力者の間に浮かんでいるアラゴン十字軍王国、そこを率いるのが女王サラジンである。
女王サラジンと周辺の人々
フランス王国摂政・ポワティエ公フルク・ド・アンジューの次女であり、アラゴン十字軍における彼の目覚ましい働きの報奨として、王位を与えられた。
このときサラジンは27歳。突如与えられた女王としての役割にも動じることなく、同じくアラゴンに領地を得た十字軍諸侯に対しても堂々と振る舞って見せたという。
サラジンの夫は「エル・シッド」「カンペアドール」の名でイベリアにその名を知られた騎士ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールであり、またカスティーリャ王サンチョ2世との厚い友情でも知られていた。その名声を見込んだサラジンの父、ポワティエ公(当時はアンジュー伯)フルクが是非にとサンチョ2世に頼みこんで実現させた縁組である。
サラジンは生来男性を寄せ付けないところがあり、女しか愛せない質なのだという噂もあったが、ロドリーゴのフルクの宮廷での働きぶりを目にする中で、その高潔な人柄に男女のそれを越えた強い信頼を寄せるようになった。
二人の間にはオトゥン、ジェローという2人の男児があり、どちらもすくすくと成長していた。
また、遠くシチリアのバーリに嫁いだ姉の小エルマンガルドとの絆も強いものがあった。長男・小フルク、そして母エルマンガルドを幼いころに失った二人は、その悲劇の重さに耐える中で悲しみを共有し、強い絆を育んだのである。
さらにサラジンは意外な人物とも友情を結んでいた。父フルクの愛人であり、彼との間に私生児フンベルトを儲けていた女性、アリックスである。フルクの密偵頭アデレードの娘として、アンジュー家の宮廷で育った彼女は、2歳年下のサラジンを悪童の嫌がらせから守ったことがあり、それ以来彼女らは友人同士であったのだ。アリックスが父フルクと関係を持ってからも、2人の友情は変わることはなかったという。
アラゴンのアルバラシンの地に宮廷を構えたサラジンはさっそくアリックスを呼び寄せると、彼女の母アデレードを父フルクと同様に密偵頭に任じると、アリックスの子でありサラジンにとって異母弟にあたるフンベルトには南仏の大領土の相続人であるトゥールーズ女公アダライダとの縁談を世話した。
この縁談を通じてアダライダはサラジンの有力な同盟者となっただけではなく、アンジュー家の拡大にとって大きな役割を果たすことになる。
十字軍国家の足固め
アラゴンの地に産声を上げたアンジュー家の王国であったが、その体制は脆弱であった。現地に残留したサラジンに忠誠を誓う十字軍騎士たちの存在があったため、兵力はある程度整っていたものの、サラジンの直轄地はアルバラシン城周辺のわずかな土地のみで、財政は火の車だった。
王国の土地の大部分は、アンジュー家同様に十字軍で功績を上げた家の者たちに分配されており、彼らは生まれも違えば言語もバラバラで、意思疎通にも難がある有様であった。
サラジンは機先を制するべく、まずは王国法の宣言を行った。これはサラジンの諸侯に対する優越を明文化する行為であり、特に大きかったのは国外の人物への継承を認めないという項目だ。十字軍諸侯は例外なくそのルーツを異国に有しており、継承によって領地の支配権が他国に流出するおそれがあった。これを抑止するのがサラジンの狙いであった。
サラジンの宣言した体制には、諸侯の反発が懸念された。そこでサラジンはさらに次の手を打つ。
王国の威儀と軍備を整えるための税を取り立てる触れを全土に発すると、廷臣一同を集めてアルバラシン城を発ち、諸侯の領地へと巡行を開始したのだ。女王に跪き金庫を開くか、あるいは一戦を覚悟し彼女の訪問を拒むか、態度を明らかにするよう諸侯に迫ったのである。
このサラジンの素早い動きに、十字軍諸侯の多くは観念して忠誠を誓い、次々と貢物を差し出した。
唯一、アルプスのサヴォイア家出身のカラタユー伯フンベルトのみが、サラジンの訪問に対して門を閉ざした。だが、これもサラジンにとっては想定のうちであった。女王の訪問を拒絶したカラタユー伯を強引に拘束したところで、誰も異議を唱えることはできなくなったのだ。
巡行から帰還したサラジンは、すぐさまカラタユー伯を拘束し、地下牢に幽閉。女王を侮ったものがどうなるか、王国諸侯たちに知らしめることになった。
この領内巡幸にはもう一つ目的があった。十字軍王国の支配層として引き連れてきたアンジュー領のフランス人たちと、イベリアの民との融和である。
カトリック・イスラムの支配者たちが目まぐるしく入れ替わる歴史の中で、イベリアの地には他の地域とは大きく違う独自のルールが形成されていた。イベリアの民に余所者と認識されているうちは、たとえ聖戦を呼びかけようと兵が集まることはなく、下手を打てばあっという間に排斥されるだろうと、サラジンはイベリア出身の夫ロドリーゴからよく聞かされていた。
巡幸ではサラジンは諸侯たちに命じ、アラゴンの地に住まうカタルーニャ人達と交流する催しを設けさせた。サラジン自身もそうした催しに積極的に姿を見せ、リェイダではサラジンの長子オトゥンが領民のカタルーニャ人たちに混じって楽しげに踊る姿が見られるほどであった。
この試みは大いに効果を発揮し、フランスの十字軍兵士たちはカタルーニャ人達の影響を強く受け、彼らの間に積極的に溶け込んでいった。サラジンもそうした行動を奨励し、これ以降自らをイベリアの人、イベリーキと名乗るようになった。
タラゴナ州ではフランス出身の兵士たちがイベリアの衣装をまとい、フランスの武勲詩をカタルーニャ風にアレンジし、商人に転身しカタルーニャの交易船に乗り込む者たちも現れた。
一方、この領内巡幸の影で、密偵頭アデレードはアラゴン王サンチョの宮廷で暗躍していた。狙いはサンチョの弟たちに嫁いでるハンガリー王女ジュディスと、プロヴァンス公女エレナの暗殺。彼女らに消えてもらうことで、アラゴン家の婚姻同盟を崩すことが目的だ。
アデレードの手腕はイベリアの地でも変わらず冴え渡り、巡幸中の1100年にジュディスが、翌1101年にエレナが不慮の死を遂げた。
時を同じくしてアラゴン王サンチョ自身も逝去し、息子のレミロ2世が跡を継いでいた。同盟の喪失に相続による直轄領分割もあり、アラゴン家の動員兵力は大きく減退。
さらに、サンチョの同盟者であったハンガリー女王の要請により、アラゴン軍は遠く神聖ローマ帝国に援軍を送っており、その遠征は2年にも及んでいた。
1101年10月、サラジンは自らの称号であるアラゴン公の正当な領土として、アルト・アラゴン、ソブラルベ、ウエスカの支配権を譲渡するよう要求し、挙兵する。
アラゴン王レミロ2世は慌てて取って返したが、リェイダ城付近の丘でロドリーゴが率いる十字軍に補足され、散々に打ち破られた。辛くも逃げ帰ったレミロ2世だったが、居城であるハカ城の陥落時にあえなく捕えられ、降伏文書に署名。バルセロナ地方を除くアラゴンの大半が十字軍の勢力下に入った。
また、アラゴン戦の始まる直前から妊娠していたサラジンは、無事に第三子を出産。三人続けての男児であり、ジェルドゥインと名付けられた。
戦争終結後のある日、ロドリーゴやアリックスといった近しい人々によるささやかな宴も開かれ、サラジンは大いに喜んだという。公私共に充実していたこれらの日々は、彼女の人生で最良の時であったといえるかもしれない。
トゥルーズ戦争、骨肉の戦い
1102年から1103年にかけて、密偵頭アデレートがまた見事な働きを見せた。タラゴナ女伯の不貞、カラタユー伯の性的倒錯の秘密を暴いた。サラジンは彼らに領主の資格なしと糾弾し、誰にも異議を唱えさせずに領地の没収を実行。さらにその基盤を強めることに成功した。
そんな折、アルバラシンの宮廷に同盟相手のトゥルーズ女公爵から使者が到着する。モンペリエ伯領が攻められているため援軍を願うという内容だったが、この要請に応えるべきかどうかで宮廷は騒然となる。なんと、モンペリエ伯領を攻撃しているのは、サラジンの父、ポワティエ公にしてフランス摂政のフルクその人だったのである。
サラジンは悩んだ末、トゥールーズ女公の要請に応えることにした。隣国であるトゥルーズとの同盟は重要であり、アラゴンの制圧後も良い関係を保ちたかったのだ。トゥールーズ女公とサラジンの同盟は父フルクにとっても周知の事実であり、つまりはサラジンの軍との衝突も覚悟の上ということでもある。サラジンは軍を夫ロドリーゴに預け、ピレネーを越えトゥールーズへと進発させた。
しかし、ここでサラジンは判断ミスを犯した。徴募兵と常備軍の2000名のみを派遣し、十字軍兵士たちを温存したのである。
これでも数的にはフルクの軍勢を上回っていたが、それはトゥールーズ側と足並みを揃えられればの話であった。こちらから攻勢に出ての早期決着を目論んだサラジンに対して、あくまでトゥールーズ軍は決戦を避け、モンペリエ近辺での対峙を企図していたのだ。
トゥールーズ軍との連携を欠いたサラジン軍は孤立したところをフルク軍に痛撃を食らうなど、ずるずるとこの戦争は長引き、気づけば2年以上の月日が流れていた
サラジンと父フルクの戦争が泥沼化していた1105年3月、驚きの情報がもたらされた。フランス王ベルナール1世がフランス有力諸侯の圧力に屈し、全ての封建契約を白紙とする書面にサインしたのである。ユーグ・カペー以来120年続いたカペー朝フランス王国の崩壊であった。
カペー朝フランスの滅亡
カペー朝フランス王国は、1096年のアラゴン十字軍以降、常に不安定な状態にあった。
1097年、アラゴン十字軍の進軍と同時期、フランス王ルイ6世が不可解な状況で死去。享年18歳、父王フィリップ1世から2代続けての暗殺である。
ルイ6世の跡を継いだのが、カペー朝最後の王となる弟のベルナール1世である。年齢は8歳、兄王ルイと2代つづけての幼君であった。しかもこの少年王は人の血を見るのを好み、また息をするように嘘をつく、およそ王としては頂きたくない類の人物であった。
この王の下で王国がまともにまとまるわけもなく、大規模な王権低下の反乱が起きた。
カペー一門のブルゴーニュ公を含む5人の公と4人の伯、王国封臣の過半数が叛くという大反乱である。そして、これに対して王を補佐するべき摂政・ポワティエ公フルクはもっぱら十字軍のほうに関心を注ぐばかりで、派閥にも反乱にも対策を全く行わなかった。
当然のように王国軍は敗北。フランス王国の王権は最低レベルに落ち、またこの勝利によって反乱した諸侯たちは王に対して様々な要求を突きつけられる状態になった。
諸侯たちは権益や名誉を目当てに評議員の席に群がり、その席取りに出遅れたものはさらに不満をためこんだ。ポワティエ公フルクが強引な手段で摂政に居座っていたため、彼を嫌うもの、自分こそ摂政の地位にふさわしいと思う者たちも憤激した。
フランス諸侯たちの共通認識は、既にこの王国が機能していないということであった。先の反乱から5年後、再び結集した諸侯たちはベルナール1世の廃位と、フランス王国の全ての封建契約の破棄を決定。
今度こそ抵抗不可能であることを悟ったベルナール1世は彼らの要求に屈し、ここにカペー朝フランス王国は崩壊したのである。
去りゆく旧世代
フランス王国が失われても、トゥルーズ女公とサラジンによるフルクとの戦いに終わりは見えなかった。そして1106年4月29日、サラジンに悲報が届く。夫ロドリーゴが戦陣で病を得、そのまま逝ってしまったのである。享年58歳。
その2ヶ月前には、僅かな機会を見てアルバラシンへ戻った彼と遠乗りに出かけたばかりであった。
十字軍の柱石・ロドリーゴの死に、アルバラシン城は悲しみに包まれた。だが戦争はそんなことはお構いなしに進んでおり、いつまでも悲しんではいられない。戦局を打開するため、サラジンはついに本国の十字軍兵士の投入を決断。
側近のハンス・オブ・フィンスタと、元帥を務めるフラガ伯ソーリーに指揮を委ね前線に送り出した。
また、ロドリーゴの二つ名でもあった「エル・シッド」を称え、その名を王国騎士に引き継いでいくことを決定。騎士サンチュ・ド・コリアスがその栄誉に預かった。以降、「エル・シッド」の名誉ある名はアラゴン王国の騎兵長官に引き継がれてくことになる
宮廷では女王の再婚をどうするかも議論されたが、サラジンは喪に服すと言ってそれらの話をすべて却下した。貞女との感服する者もあったが、それと同程度には、やはり男を愛せない質なのでは…と噂する者たちもあったという。
十字軍兵士たちの投入により、父フルクとの戦争はようやく膠着状態を脱し始める。それでもフルクは簡単には引き下がらず、執拗に抵抗を続けた。粘り腰の戦いが続いた末、1108年を迎えてようやく確実な勝利が見えつつあった、そんな矢先のこと。
1108年2月14日、ポワティエ公フルク死去、享年65歳。死因は不明、暗殺と思われる。果たして人は彼を十字軍の英雄と記憶するのか、それともフランスを崩壊に導いた佞臣と評価するのか。いずれにせよ、この時代の中心にいた人物であったことには間違いなかった。
ポワティエ公位は嫡子フレデリクが継承し、その一週間後にはトゥルーズ女公のもとに降伏の使者が賠償金を携えて到着した。4年半という長きにわたる戦争はこうして終わった。
そして何という奇縁か、フルクの死のちょうど同日に、アルバラシンの十字軍宮廷でも、1人の女性が息を引き取っていた。
フルクとサラジンの2代に渡って仕えた密偵頭アデレードである。アンジュー父娘の影の仕事を一手に取り仕切ってきた彼女の死は、その人生の影の濃さには不釣り合いな静かなものであった。
旧主にして今は敵軍の主となったフルクと同日の死という符号は、口さがない人々の格好の噂の種となったというが、真相を知るものは誰もいない。
古き王国が滅び去り、前世代の人物たちが次々と亡くなったこの時期を経て、アンジュー家の系譜も本当の意味で新たな世代に突入したと言えるのかもしれない。
続きはこちら…
初代 トゥレーヌ伯フルク (1066~1099)
アンジュー兄弟の相克
1066年のフランス王国には、カペー家の若き王フィリップ1世に仕えるアンジュー家の封臣が2人いる。
1人はアンジュー伯ジョフロワ3世。家名の由来でもあるアンジューと、ロワール川を挟んで隣接するソミュールの2伯爵領を治めている。
そしてもう一人が今回のプレイヤー、トゥーレーヌ伯フルク。分割相続で兄ジョフロワと領地を分け合う形になっている。
兄弟どちらも未婚の子なし。請求権こそ設定されていないが双方がお互いの第一後継者となっており、このゲームのプレイヤーであれば血を血で洗う抗争を予感せずにはいられない状況だ。
強い野心と強欲さを持ち、他者を重んじず虚言を弄する、それがトゥーレーヌ伯フルクという男である。そんな男が兄ジョフロワの下風に立つのを良しとするはずもなく、いずれはその領地をすべて我が物とすべく虎視眈々と兄の命を狙っていた。
しかしそれはともかく、貴族としてはまず結婚である。フルクがその妻として選んだのは、ブルゴーニュ地方に3領を有するオセール伯ギヨームの長女、エルマンガルド・ド・バショモンであった。
良縁を成就させ意気軒昂となるフルクに、早速好機が訪れる。1067年の冬、クレルモン伯ルノーからの狩猟の誘いを受け現地に到着してみれば、何とそこには兄ジョフロワの姿があるではないか。
だが、フルクはその好機を捕らえることはできなかった。しかもあまつさえ、彼の所業はジョフロワに気づかれてしまったのだ。慌ててフルクはトゥーレーヌの居城に逃げ帰った。弟の邪な思惑に気づいたジョフロワがどう出るか、場合によっては戦もあり得る…と思案するフルクだったが、事態は急展開を見せる。
1067年12月、フランス国王たる若きフィリップ1世が、破門のかどでジョフロワの投獄を試みたのだ!何とか逃れたジョフロワは王に反旗を翻したものの、彼に味方する諸侯はフランス内外に1人もいなかった。
追い詰められたジョフロワはアンジェ城に立て籠もるも翌年には落城。身柄を拘束され、王命により処刑されてしまったのである。同年に成人しようやく親政を開始したばかりのフィリップは、この処断により諸侯を畏怖させようと考えたのであろうか。
こうして主を失ったアンジュー家伝来の領地は、相続により労せずしてフルクの手に転がり込んできたのである。何たる幸運か!この知らせを受けたフルクはすぐに私室に籠もると、大いに快哉を叫んだという。
早速フルクはアンジェに居城を移し、アンジュー家領の統合と、自らが家長となったことを内外に示した。この日以降、彼はアンジュー伯フルク4世を名乗るようになる。
シャンパーニュ公との抗争
アンジュー伯就任と直後、フルクにまたしても嬉しい出来事があった。かねてより身ごもっていた妻エルマンガルドが無事に出産を終えたのだ。生まれた娘にフルクは妻の名をとり、小エルマンガルドと名付けた。
貴族の常として、明らかな政略結婚であったフルクとエルマンガルドだったが、その仲は非常に良好であった。
夫婦が連れ立ってロワール川で釣りをする姿は領民に何度か目撃されており、それはそれは仲睦まじげな様子であったという。
1070年初頭には長男、暮れには次女が誕生。長男には父と同じフルクの名が与えられ、次女はサラジンと名付けられた。
しかし、彼ら夫妻が牧歌的なおしどり夫婦であったのかと言えば、どうもそうではなさそうである。
アンジュー伯を継承後も、フルクの親族縁者には不審な死が多発した。多くはフルクの陰謀であると見られており、それらの陰謀を実行するにあたって妻エルマンガルドの助言を頼りにすることが少なくなかったという。2人は神にも悖る邪悪な陰謀を練り上げる、暗いパートナー関係でもあったのだ。
アンジュー家とその親族たちの間には、常に血を血で洗う争いが渦を巻いていた。
1073年、フランスきっての大貴族の1人、ブロワ家のシャンパーニュ公ティボーがフルクの旧領トゥーレーヌを要求し、アンジュー領に攻め込んできたである。
ティボーの息子・エティエンヌの妻はフルクの母がブルゴーニュ公に再嫁した後に生まれた異母姉妹であり、フルクにとってエティエンヌは義弟にあたる。
フルクは義父オセール伯を救援を願ったが、シャンパーニュ公にはブルターニュからの援軍もかけつけ、彼我の戦力差は2倍となった。アンジェ城を包囲する大軍を前に抵抗の無意味を悟ったフルクは、干戈を交えることなく降伏を決断した。アンジェ城が陥落し妻や子らが捕虜になる事態を恐れたとも言われる。
さらに不幸は続いた。フルクの長子、後継者たる小フルクが、姉の小エルマンガルドとの川遊びの最中、誤って溺死したのである。
妹の嫁ぎ先に領地を奪われ、さらに息子まで失ったフルクは、その怒りと無念をトゥーレーヌ領奪還へと傾けていく。
最初こそ王フィリップにシャンパーニュ公の横暴を訴えるという真っ当な手段に出たが、これはなんとフィリップにより門前払いを受けてしまう。ティボーがトゥーレーヌを自らの臣下に授与したため、これに王の権限では干渉できないというのだ。
しからば已む無し。フルクは自らの得意とする陰謀を駆使し、トゥーレーヌ伯領を取り返すこととした。手始めに密偵頭のアデレードに命じ、王国各地の秘密を探っては脅迫を繰り返し、軍資金を溜めていく。
失地より4年が過ぎた1077年、シャンパーニュ公ティボーが死去する。死因は老衰。「シャンパーニュの狼」と恐れられた猛将の死で、ブロワ家の結束が一気に揺らいだ。
ティボーの死を受けシャンパーニュ公となったフルクの義弟エティエンヌだが、家中をまとめられず反乱が勃発。ここが好機とフルクは陰謀の手を伸ばした。標的はエティエンヌの妻、フルクにとって異父妹のオーレアド。彼女の父・ブルゴーニュ公ロバートの介入を阻止するためである。
1079年、シャンパーニュ公エティエンヌは家臣たちに膝を屈し、わずか2年で公位を手放すことになった。跡を継いだ同名の息子・幼エティエンヌはわずか2歳、その兵力も財政もボロボロである。
機は完全に熟した。1080年1月、義父オセール伯と共にフルクは挙兵した。もちろん目標はトゥーレーヌ伯領の奪回である。
準備は万端、敗戦の余地のない戦い。だが、フルクに届けられたのは全く別の方角からの悲報であった。
第4子を妊娠していた妻エルマンガルドが、産褥で亡くなったのである。享年30歳。人を人とも思わぬ陰謀家のフルクにとって、彼女だけが唯一、無条件で心を許せる存在であった。
あまりの衝撃に、フルク自身もまた床に臥せった。侍医の診断は結核。伯は最愛の妻の後を追うのでないか、家中の人々は噂した。だが、侍医の適切な処置もあり、なんとか死の淵でフルクは踏みとどまった。あるいは、エルマンガルドの遺した子どもたちの成長を見届けるまでは死ねないという決意であったかもしれない。
フルクは倒れたが、シャンパーニュ公との戦争はアンジュー軍の第一の騎士・ジェルドゥイン卿の指揮のもと順調に進み、トゥーレーヌを見事陥落させる。フルク自身も結核と戦いながら前線に指示を飛ばした。シャンパーニュは新たにイタリアはジェノヴァ公と同盟を結ぶなどして対抗したが、遅きに失した。トゥーレーヌを奪い返せないまま1年以上の月日が経過した1081年9月、ついにシャンパーニュは降伏。
フルクは実に8年ぶりに旧領を奪還したのである。
勢力拡大と婚姻政策
苦楽を共にした妻エルマンガルドを失ったフルクであったが、このまま操を立てて男やもめで過ごすというわけにはいかなかった。男子はエルマンガルドの忘れ形見のフレデリク1人であり、もし彼に何かあれば男子の継承者がいなくなってしまう。
シャンパーニュ公が復讐戦に臨んでくることも考えられ、妻の実家であったオセール伯との同盟が失われた今、軍事的にもフルクの婚姻は必須だった。継承者になる可能性を考えると娘らを嫁に出すことも難しいため、フルクの結婚は非常に重要な同盟カードである。
慎重な吟味の末、白羽の矢が経ったのはノルマンディー地方のエヴルー伯リチャードの一人娘クラリモンである。といってもクラリモンはまだ9歳であり、輿入れ自体は早くても7年後となる。「獅子伯」の異名をとる優秀な軍人であり、1600に及ぶ兵士を動員できるエヴルー伯の軍事力が、この婚姻の最大の目的であった。
1083年には長らく患っていた結核も完治し、人心地ついたフルクは、さらなる勢力拡大に向けて動き出した。狙いは数年前、他国の宰相の失策によって請求権を手に入れていた、ブルターニュのナントである。
1084年9月、ブルターニュ公爵領を強力にまとめていた「健脚公」コナンを暗殺。
代替わりにより同盟を崩し、国内が動揺した隙を狙い、ブルターニュ公を継いだコナンの子ヒュイアルナルに宣戦を布告。援軍の獅子伯ウィリアムの武勇と軍略は素晴らしく、ブルターニュ軍をクラオンで補足し散々に撃破した。
その後もいくつかの戦闘を経て、1086年にはブルターニュ公の居城ヴァンヌ城が陥落。たまらずヒュイアルナルは降伏し、ナントを明け渡した。
ブルターニュ公との戦のさなかの1085年、長女エルマンガルド成人し、かねてより婚約していたバーリ伯ジョフロワの次男アレクサンダーを婿に取った。シチリアのノルマン人傭兵から身を起こしたコンヴェルサーノ家の青年は、高い軍事的才能と貞節さ、宗教的情熱を兼ね備えた立派な騎士と評判であった。夫婦仲は良好のようで、翌年にはフルクにとって初孫が誕生。フルクはこの孫にもエルマンガルドと名付けた。
1087年には次女サラジンも成人して結婚。
相手は北イベリアの三王国を統一したカスティーリャ王サンチョの腹心、カンペアドールと称された騎士、ロドリーゴ・ド・ヴィヴァールである。西欧でも最高の騎士を婿に迎え入れることになったフルクは大いに喜び、手ずから叙勲を与えたという。
一方でフルクは、密偵頭アデレードの娘アリックスを側に侍らせることが増えていた。フルクは後継男子が1人だけという問題を憂慮しており、庶子でも構わないから男子を増やそうとやっきになっていたようだ。
そして1088年4月8日、フランス王国に激震が走った。フィリップ1世が突然崩御。死因は何者かによる暗殺と見られているが、首謀者は不明であった。
王太子ルイがルイ6世として戴冠したが、年齢はわずか9歳。摂政がつき政務を見る必要があったが、フィリップが遺していた文書により、並み居る重臣たちを抑えてその座に指名されたのはアンジュー伯フルクだったのである。
フランス摂政フルク
幼王ルイ6世を補佐する評議会には、摂政にして密偵頭を兼ねるアンジュー伯フルクの他、宰相アキテーヌ女公エネス、家令トゥールーズ公ギレム5世、元帥ブルゴーニュ公アンリ3世といった面々が名を連ねた。いずれもフランス王国きっての実力者であり、摂政を務めても不思議でないメンバーだ。そうした貴顕たちの頭を飛び越えてのフルクの摂政就任が面白いはずはなく、評議会には異様な緊張感が漂っていた。
フルクも彼ら同輩たちと良好な関係を築くことは早々にあきらめ、摂政の専権を振るっては特別徴税と称して彼らの領地から金品を押収し蓄財に励んだ。
また密偵頭を使った脅迫も引き続き行われ、アンジェ城の倉庫には金貨が山積みにされていった。この頃、聖地への大規模な遠征が計画されつつあるとの噂があり、それに備えて資金を備蓄していたとも言われる。
1089年には、フランデレン公ボウデヴァイン6世が、我こそフランス王に相応しいと主張して蜂起。先王フィリップの従兄でありながら王国中枢から外され、不満を爆発させた結果であった。体制への不満を抱いた封臣たちを巻き込み、その兵力は4000にまで膨れ上がっていた。
簒奪も危ぶまれた反乱は、しかし翌年には収束する。反乱の首魁たるボウデヴァイン6世が急死したのである。自領で行われた狼狩りの現場でその報を受けたフルクは、平静そのものであったという。
フルクはまともに反乱軍と戦うよりも、密かにボウデヴァインに死んでもらうことを選択していた。フルクは毒を仕込んだ絨毯を調達すると、美辞麗句を添えてそれをボウデヴァインに贈った。その後、ボウデヴァインは目に見えて体調を崩し、折からの深酒も祟ってあっという間に亡くなってしまったのである。手を汚すことなく反乱を収束させ、摂政の地位を維持したフルクの鮮やかな手並みであった。
その頃、成人したクラリモン嬢がエヴルー伯領より到着し、アンジュー伯家の後妻として迎え入れられていた。フルクとの夫婦関係は当初あまり良くないように思われたが、ある頃から突如親密になった2人は頻繁に閨にこもるようになる。
一方で、フルクの公然の愛人であったアリックスの間にも男子が誕生。フンベルトと名付けられた男児をフルクは認知したものの、あくまで庶子としての扱いに留め置いた。アリックス自身も間をおかずフルクから遠ざけられ、後にポーランドから招かれた騎士と結婚することになった。
その後はフルクとクラリモンの寝室での関係は順調に進み、男子を3人立て続けに授かることとなる。長女エルマンガルドと次女サラジンもそれぞれに子を産み、フルクの血を引くアンジュー一門は着実に増えつつあった。
一方、伯領内ではまた別の問題も持ち上がっていた。次女サラジンの婿となり、元帥を務める「エル・シッド」ことロドリーゴに悪い噂が絶えないのだ。短い付き合いではあったが、彼の誠実さには疑いの余地がないことをフルクは確信していた。おそらく彼の才能や人格を妬んだ者たちのやっかみであろうことは想像に難くない。
フルクはロドリーゴの追放を提案する家臣たちを一笑に付し、変わらぬ信頼を約束すると元帥の地位を据え置いた。
そうして月日は過ぎていき、気づけばフルクも50の坂を迎えていた。迫りくる老いの影を振り払うように、ときには領内に現れたという白い熊を追い、またときには教皇に働きかけては隣国ポワティエ公爵の領有を認めさせるなど、フルクは精力的に活動を続けた。
そして1095年。若き教皇ニコラウス3世により、ついに聖地奪還の大号令が発せられた。世に言う十字軍の始まりである。
アラゴン十字軍へ
カトリック世界の全てが注視するこの大事業で戦果を上げ、あわ良くば我がアンジュー家が聖地の王に…そんな野望に燃え、勇んで参加を宣言したフルクであったが、問題が発生した。教皇が十字軍の進軍先として選んだのは、レコンキスタの炎渦巻くイベリア半島のアラゴン王国であり、当初の宣言で謳われていた聖地イェルサレムではなかったのである。
信仰篤きカトリック者として名高い人物であれば、あるいはイェルサレム行きを主張すれば話は変わったかもしれない。が、あいにくとこれまでおよそ模範的とは言い難い人生を送ってきたフルクが何を言ったところで、この遠征の目的を変えられる目はなかった。
打つ手はなかった。せめて勲一等の暁には、次女サラジンがアラゴン王の下風に立たぬように工作しておくのが精一杯であった。
腹の虫が治まらないフルクは、かねてより教皇から認められていたポワティエ公爵位の請求権を執行するよう、主君ルイ6世に奏上。ルイは難色を示したものの、フルクは珍しく弁舌を振るい宰相シャンパーニュ女公ガルセンドを説き伏せ、ついに王の首を縦に振らせたのである。
そうして1096年の暮れ、ついに十字軍が進発を開始。フルクもすぐさまそれに応え兵士を召集、ピレネーを越えイベリアへと乗り込むよう命じた。指揮を執るのはもちろん「エル・シッド」ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールである。アンジュー軍はどの諸侯よりも先んじ、サラゴサのタイファが治めるラリダ城を包囲。しかしこれは失策であった。
タイファ達が連合したムスリム軍の反応は素早く、予想以上の数の兵がアンジュー軍に向けて殺到する。後詰めの教皇軍やトゥールーズ軍は援軍に来ることもなく、アンジュー軍は5倍のムスリム兵を相手取り、惨敗。2000名のアンジュー軍のうち、生き残ったのはわずか60名に満たないという惨状であった。
壊滅的な敗戦であったが、フルクはこの一戦で諦めることはなかった。溜め込んだ資金で傭兵を雇い、再度部隊を編成したのち、1098年の年明けには再びアラゴンに乗り込む。
その後、ようやく足並みが揃った十字軍はムスリムの諸城を次々と攻略。
そして1099年8月、ムスリム軍はついには降伏し、アラゴンから全面撤退。教皇ニコラウス3世は、アラゴン南部一帯を領する「アラゴン十字軍王国」の建国を宣言し、フルクの次女・サラジンに手ずから戴冠したのである。
こうしてフルクの長年の戦いはイベリアの地で実を結ぶことになった。これよりアンジュー家の物語は、この異郷で女王の座についたサラジンを中心に語られていくこととなる…
次回はこちら…
Crusader Kings 3 1066年 アンジュー家
フランスのアンジュー家、あるいはガディネ家といえば、アンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝イングランド、そしてかのボードゥアン4世に代表されるエルサレム王国などの王朝として有名だ。
カペー朝フランス王国に仕える伯爵でありながら、婚姻と継承を通じて複数の王国の王位を得た、いかにもクルセイダーキングスらしい事績を持ったこの家で遊んでいきたいと思う。
目標はまず十字軍としてのエルサレム王国の建国。そして彼の地に天の王国、キングダム・オブ・ヘブンを築くのだ。どう考えても映画の影響です。いつかやりたかった。
聖戦と布教でイスラムを駆逐するのではなく、宗派創設や文化融合を駆使して映画で理想に語られたような共存の王国をゲームの中で実現…できればいいなあ
バージョン
Lance(1.9.0)
Lance(1.9.1) 第2回より
使用MOD
Steam Workshop::Japanese Language Mod
Steam Workshop::Community Flavor Pack
Steam Workshop::Personage (2代目より)
各回へのリンク
二代目 アラゴン十字軍女王 サラジン その1 (1099~1108)
二代目 アラゴン十字軍女王 サラジン その2 (1108~1141)