二代目 アラゴン十字軍女王 サラジン その1 (1099~1108)

 

※今回からVer1.9.1です。また人物UIの変更MOD「Personage」を使用しています。

 

前回

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イベリア情勢とアラゴン十字軍王国

1099年のイベリアは、激しい闘争の嵐の中にあった。カトリックムスリムの諸侯が入り乱れ、生き残りをかけてぶつかり合う、敵意の時代の中にあった。

強力な開戦自事由で殴り合える敵意フェーズだが、今の十字軍は侵入者(イベリア内に首都があるけど、文化はイベリア内にほとんどない状態)扱いのためほとんど恩恵を受けられらない。
下手すると一方的に殴られるだけなのでなんとかしたいところ

1099年のイベリア半島情勢。北東部にある黄色い国家がアラゴン十字軍国家。サラゴサのタイファ国家があった地域をそのまま奪った形になる

アラゴン十字軍をとりまく諸勢力の中で最も強大なのは、イベリア北西部に大きく広がるカスティーリャ王国の「剛腕王」サンチョ2世。3つに分裂した父の王国に加えてナバラまで統一し、大西洋を越える形でセビリアを飛び地として支配する、北イベリアの覇者である。

キャラ選択画面でもおなじみのヒメノ3兄弟の長男。最初のVerではだいたい弟のアルフォンソが統一してたけど、最近はサンチョがしっかり弟たち仕留めて勝ち残っている姿をよく見る気がする

十字軍の北東部、ピレネー山脈に沿うように位置するのがアラゴン王国教皇の号令は本来この王国を救済するためのものであった。ここを統べる王の名はこちらもまたサンチョ。アラゴンの地の支配を巡って十字軍と対立するのは必然の流れであった。

兵数が多いのは別の戦で雇った傭兵のおかげのようだが、ハンガリープロヴァンスとの同盟が気になるところ。当面の敵はこのアラゴン王国になるだろう

南方には後ウマイヤ朝の崩壊後に分立したムスリム国家、いわゆるタイファが割拠している。その中でも最大の勢力がトゥレイトゥラ(トレド)のイスマイールである。十字軍と戦った疲弊があるが、回復すればその兵力はカスティーリャ軍に勝るとも劣らない強国だ。

ムスリム軍でもっとも強勢なトゥレイトラの太守。同盟もしっかり組んであり、まともに戦うとかなり厳しい相手なので、十字軍との戦いのおかげで10年の停戦があるのがかなりありがたい。

こうした実力者の間に浮かんでいるアラゴン十字軍王国、そこを率いるのが女王サラジンである。

女王サラジンと周辺の人々

フランス王国摂政・ポワティエ公フルク・ド・アンジューの次女であり、アラゴン十字軍における彼の目覚ましい働きの報奨として、王位を与えられた。

このときサラジンは27歳。突如与えられた女王としての役割にも動じることなく、同じくアラゴンに領地を得た十字軍諸侯に対しても堂々と振る舞って見せたという。

性格特性は野心的、勇敢、強欲。地位であれ名誉であれ金銀財宝であれ、欲しいものは相手を恐れること無く手に入れに行く、そんな性格だろうか。能力値は軍事の高さが目につくが、これは配偶者のロドリーゴのサポートで+6もの補正をもらっているのが大きい。

サラジンの夫は「エル・シッド」「カンペアドール」の名でイベリアにその名を知られた騎士ロドリーゴ・デ・ヴィヴァールであり、またカスティーリャ王サンチョ2世との厚い友情でも知られていた。その名声を見込んだサラジンの父、ポワティエ公(当時はアンジュー伯)フルクが是非にとサンチョ2世に頼みこんで実現させた縁組である。
サラジンは生来男性を寄せ付けないところがあり、女しか愛せない質なのだという噂もあったが、ロドリーゴのフルクの宮廷での働きぶりを目にする中で、その高潔な人柄に男女のそれを越えた強い信頼を寄せるようになった。

二人の間にはオトゥン、ジェローという2人の男児があり、どちらもすくすくと成長していた。

十字軍王国の王配となったロドリーゴ・デ・ヴィヴァール。まさかこんな形でイベリア半島に舞い戻ることになるとは本人も思わなかったであろう。
戦場でも宮廷でも、公私に渡ってサラジンに尽くしてくれることを期待したい

サラジンの性的指向は同性愛。プレイヤーであれば指向を無視してロマンスなどを仕掛けることもできるが、折角なのでロドリーゴとは友人のままを選択する

また、遠くシチリアのバーリに嫁いだ姉の小エルマンガルドとの絆も強いものがあった。長男・小フルク、そして母エルマンガルドを幼いころに失った二人は、その悲劇の重さに耐える中で悲しみを共有し、強い絆を育んだのである。

姉エルマンガルドとも強い関係だった。幼少期の彼女たちの境遇を思うと、なかなかグッと来る関係である。

さらにサラジンは意外な人物とも友情を結んでいた。父フルクの愛人であり、彼との間に私生児フンベルトを儲けていた女性、アリックスである。フルクの密偵アデレードの娘として、アンジュー家の宮廷で育った彼女は、2歳年下のサラジンを悪童の嫌がらせから守ったことがあり、それ以来彼女らは友人同士であったのだ。アリックスが父フルクと関係を持ってからも、2人の友情は変わることはなかったという。

サラジンの人間関係をチェックしていたら彼女の名前があったときには驚いて声が出た。まさかここで彼女がさらに絡んでくるとは…クルセイダーキングス、やってくれるぜ。しかし娘の友だちに手を出すとは、父フルクさのゲスさがますます際立つ話である

アラゴンのアルバラシンの地に宮廷を構えたサラジンはさっそくアリックスを呼び寄せると、彼女の母アデレードを父フルクと同様に密偵頭に任じると、アリックスの子でありサラジンにとって異母弟にあたるフンベルトには南仏の大領土の相続人であるトゥールーズ女公アダライダとの縁談を世話した。

この縁談を通じてアダライダはサラジンの有力な同盟者となっただけではなく、アンジュー家の拡大にとって大きな役割を果たすことになる。

アリックスが家族を連れて宮廷に来てくれたことはゲーム的にも大きかった。母アデレードアラゴンでもまさかの密偵頭続投。私生児フンベルトはサラジンにとって貴重な婚姻同盟を提供してくれた。アリックスの夫ヴワティスワフも叙勲騎士として遇されることに。

南仏の名門トゥールーズ家の女相続人アデライダ。フンベルトとの婚約により、サラジンの義妹となった。イベリア諸国の兵力バランスを考えても重要な同盟だが、これが後に西欧の情勢に大きく寄与することになる

十字軍国家の足固め

寒々しいアラゴン十字軍王国の王宮。玉座を彩る宝物はおろか、王家の威儀を示す旗すら整っていない、まさに急ごしらえの宮廷だ

アラゴンの地に産声を上げたアンジュー家の王国であったが、その体制は脆弱であった。現地に残留したサラジンに忠誠を誓う十字軍騎士たちの存在があったため、兵力はある程度整っていたものの、サラジンの直轄地はアルバラシン城周辺のわずかな土地のみで、財政は火の車だった。

王国の土地の大部分は、アンジュー家同様に十字軍で功績を上げた家の者たちに分配されており、彼らは生まれも違えば言語もバラバラで、意思疎通にも難がある有様であった。

唯一の直轄地であるアラバラシン。男爵領3つの平凡な土地だが、既に2LVの城が建設済みであり、丘の砦も備わったかなり堅固な要塞である。なお、現在は「スペイン10大美村」にも選ばれた観光地となっており、まさにこの時代に築かれた城壁も見ることができるとか。
十字軍王国に仕える封臣たち。
ドイツ、南仏、スコットランドハンガリーと実に多彩な出自である。
相手は家臣とはいえこれはCK3、サラジンの最初の敵は彼らと言っても過言ではない。

サラジンは機先を制するべく、まずは王国法の宣言を行った。これはサラジンの諸侯に対する優越を明文化する行為であり、特に大きかったのは国外の人物への継承を認めないという項目だ。十字軍諸侯は例外なくそのルーツを異国に有しており、継承によって領地の支配権が他国に流出するおそれがあった。これを抑止するのがサラジンの狙いであった。

サラジンの宣言した体制には、諸侯の反発が懸念された。そこでサラジンはさらに次の手を打つ。

王国の威儀と軍備を整えるための税を取り立てる触れを全土に発すると、廷臣一同を集めてアルバラシン城を発ち、諸侯の領地へと巡行を開始したのだ。女王に跪き金庫を開くか、あるいは一戦を覚悟し彼女の訪問を拒むか、態度を明らかにするよう諸侯に迫ったのである。

DLC「Tuors&Tournamets」の追加機能、グランドツアーを実行する。王国各地を歴訪し、臣下の忠誠心を試すのだ。資金はかなり必要になるが、徴税の巡幸であればかけた分を回収したうえ、利益を出すことも十分に可能だ。

このサラジンの素早い動きに、十字軍諸侯の多くは観念して忠誠を誓い、次々と貢物を差し出した。

唯一、アルプスのサヴォイア家出身のカラタユー伯フンベルトのみが、サラジンの訪問に対して門を閉ざした。だが、これもサラジンにとっては想定のうちであった。女王の訪問を拒絶したカラタユー伯を強引に拘束したところで、誰も異議を唱えることはできなくなったのだ。

グランドツアーによる訪問を拒絶したり、貢物を拒絶するようなことがあれば、主君側には臣下を投獄する大義名分ができる。主君としてはどちらに転んでも悪くない展開である。

巡行から帰還したサラジンは、すぐさまカラタユー伯を拘束し、地下牢に幽閉。女王を侮ったものがどうなるか、王国諸侯たちに知らしめることになった。

反乱に至らず投獄されたので、伯領の剥奪には大義名分が立たなくなってしまったが、封臣の中でも最も反抗的だったカラタユー伯の動きを封じることはできた。
あとはじっくり料理していこう…

この領内巡幸にはもう一つ目的があった。十字軍王国の支配層として引き連れてきたアンジュー領のフランス人たちと、イベリアの民との融和である。

カトリックイスラムの支配者たちが目まぐるしく入れ替わる歴史の中で、イベリアの地には他の地域とは大きく違う独自のルールが形成されていた。イベリアの民に余所者と認識されているうちは、たとえ聖戦を呼びかけようと兵が集まることはなく、下手を打てばあっという間に排斥されるだろうと、サラジンはイベリア出身の夫ロドリーゴからよく聞かされていた。

巡幸ではサラジンは諸侯たちに命じ、アラゴンの地に住まうカタルーニャ人達と交流する催しを設けさせた。サラジン自身もそうした催しに積極的に姿を見せ、リェイダではサラジンの長子オトゥンが領民のカタルーニャ人たちに混じって楽しげに踊る姿が見られるほどであった。

この試みは大いに効果を発揮し、フランスの十字軍兵士たちはカタルーニャ人達の影響を強く受け、彼らの間に積極的に溶け込んでいった。サラジンもそうした行動を奨励し、これ以降自らをイベリアの人、イベリーキと名乗るようになった。

タラゴナ州ではフランス出身の兵士たちがイベリアの衣装をまとい、フランスの武勲詩をカタルーニャ風にアレンジし、商人に転身しカタルーニャの交易船に乗り込む者たちも現れた。

混合文化の名前はいつも悩ましい それっぽい名前をつけたいのだが…
ともあれ、これで十字軍もイベリアの闘争システムの関係勢力となり、様々な開戦事由やインタラクションがアンロックできる

一方、この領内巡幸の影で、密偵アデレードアラゴン王サンチョの宮廷で暗躍していた。狙いはサンチョの弟たちに嫁いでるハンガリー王女ジュディスと、プロヴァンス公女エレナの暗殺。彼女らに消えてもらうことで、アラゴン家の婚姻同盟を崩すことが目的だ。

アデレードの手腕はイベリアの地でも変わらず冴え渡り、巡幸中の1100年にジュディスが、翌1101年にエレナが不慮の死を遂げた。

2人ともアラゴン王の密偵頭に嫌われていたようで、サクサクとことが片付いてしまった。

時を同じくしてアラゴン王サンチョ自身も逝去し、息子のレミロ2世が跡を継いでいた。同盟の喪失に相続による直轄領分割もあり、アラゴン家の動員兵力は大きく減退。

さらに、サンチョの同盟者であったハンガリー女王の要請により、アラゴン軍は遠く神聖ローマ帝国に援軍を送っており、その遠征は2年にも及んでいた。

1066年シナリオでは、ハンガリー王国の至宝であるアッティラの剣が神聖ローマ帝国の封臣バイエルン公の手に落ちている状態で始まる。
この戦いもそれに起因したものと思われるが、このタイミングでアラゴン王国が付き合わされているのはサラジンにとって僥倖というほかない。

1101年10月、サラジンは自らの称号であるアラゴン公の正当な領土として、アルト・アラゴン、ソブラルベ、ウエスカの支配権を譲渡するよう要求し、挙兵する。

アラゴン王レミロ2世は慌てて取って返したが、リェイダ城付近の丘でロドリーゴが率いる十字軍に補足され、散々に打ち破られた。辛くも逃げ帰ったレミロ2世だったが、居城であるハカ城の陥落時にあえなく捕えられ、降伏文書に署名。バルセロナ地方を除くアラゴンの大半が十字軍の勢力下に入った。

 

レミロ2世もそこそこに優秀な指揮官ではあるのだが、名高き「エル・シッド」ことロドリーゴの敵ではなかった。

また、アラゴン戦の始まる直前から妊娠していたサラジンは、無事に第三子を出産。三人続けての男児であり、ジェルドゥインと名付けられた。

戦争終結後のある日、ロドリーゴやアリックスといった近しい人々によるささやかな宴も開かれ、サラジンは大いに喜んだという。公私共に充実していたこれらの日々は、彼女の人生で最良の時であったといえるかもしれない。

トゥルーズ戦争、骨肉の戦い

1102年から1103年にかけて、密偵頭アデレートがまた見事な働きを見せた。タラゴナ女伯の不貞、カラタユー伯の性的倒錯の秘密を暴いた。サラジンは彼らに領主の資格なしと糾弾し、誰にも異議を唱えさせずに領地の没収を実行。さらにその基盤を強めることに成功した。

冴え渡る密偵アデレードの手腕により、封臣たちの領土を召し上げに成功。タラゴナ女伯のほうは反乱となったが、戦力差は歴然で1年足らずで制圧した。
しかし性的倒錯って剥奪事由になるんだな…

そんな折、アルバラシンの宮廷に同盟相手のトゥルーズ女公爵から使者が到着する。モンペリエ伯領が攻められているため援軍を願うという内容だったが、この要請に応えるべきかどうかで宮廷は騒然となる。なんと、モンペリエ伯領を攻撃しているのは、サラジンの父、ポワティエ公にしてフランス摂政のフルクその人だったのである。

父上なにやってるんですか。攻撃戦争に巻き込まれそうで父との同盟は避けていたのだが、ちゃんと同盟していれば抑止力になったのだろうか…

サラジンは悩んだ末、トゥールーズ女公の要請に応えることにした。隣国であるトゥルーズとの同盟は重要であり、アラゴンの制圧後も良い関係を保ちたかったのだ。トゥールーズ女公とサラジンの同盟は父フルクにとっても周知の事実であり、つまりはサラジンの軍との衝突も覚悟の上ということでもある。サラジンは軍を夫ロドリーゴに預け、ピレネーを越えトゥールーズへと進発させた。

父フルク側には同じフランス臣下のヴァロワ伯に加え、嫡子フレデリクの婚約者の実家であるオーストリア公の姿もあった。とはいえ兵力はこちらが優勢。早期に決着をつけられると踏んでいたが…

しかし、ここでサラジンは判断ミスを犯した。徴募兵と常備軍の2000名のみを派遣し、十字軍兵士たちを温存したのである。

これでも数的にはフルクの軍勢を上回っていたが、それはトゥールーズ側と足並みを揃えられればの話であった。こちらから攻勢に出ての早期決着を目論んだサラジンに対して、あくまでトゥールーズ軍は決戦を避け、モンペリエ近辺での対峙を企図していたのだ。

トゥールーズ軍との連携を欠いたサラジン軍は孤立したところをフルク軍に痛撃を食らうなど、ずるずるとこの戦争は長引き、気づけば2年以上の月日が流れていた

十字軍国家に与えられる「特別な兵士」は通常の兵士と違って損耗が回復しないのを嫌ったのだが、これがもろに仇になった。
プレイヤー時は戦陣に立つことはなかったか、フルクは軍事特性持ちで結構な名将である。そのフルクが率いる2倍の軍相手では、さしものロドリーゴでも厳しい。

サラジンと父フルクの戦争が泥沼化していた1105年3月、驚きの情報がもたらされた。フランス王ベルナール1世がフランス有力諸侯の圧力に屈し、全ての封建契約を白紙とする書面にサインしたのである。ユーグ・カペー以来120年続いたカペー朝フランス王国の崩壊であった。

あれ…フランスが…ない!?

カペー朝フランスの滅亡

カペー朝フランス王国は、1096年のアラゴン十字軍以降、常に不安定な状態にあった。

1097年、アラゴン十字軍の進軍と同時期、フランス王ルイ6世が不可解な状況で死去。享年18歳、父王フィリップ1世から2代続けての暗殺である。

2代続けて王が暗殺された上に犯人も不明。
密偵頭のポワティエ公フルクは一体何をしているのか。

ルイ6世の跡を継いだのが、カペー朝最後の王となる弟のベルナール1世である。年齢は8歳、兄王ルイと2代つづけての幼君であった。しかもこの少年王は人の血を見るのを好み、また息をするように嘘をつく、およそ王としては頂きたくない類の人物であった。

12歳の時点で嗜虐的と嘘つき。これだけでカトリックの評価-30、高貴タイプの封臣なら-40、敬虔タイプならなんと-50である。兄ルイも大概だったが、輪をかけて酷い。
なお、このあと成長して怠惰までついていた。

この王の下で王国がまともにまとまるわけもなく、大規模な王権低下の反乱が起きた。

カペー一門のブルゴーニュ公を含む5人の公と4人の伯、王国封臣の過半数が叛くという大反乱である。そして、これに対して王を補佐するべき摂政・ポワティエ公フルクはもっぱら十字軍のほうに関心を注ぐばかりで、派閥にも反乱にも対策を全く行わなかった。

兵力差実に6倍。戦争に至ったのが不思議なくらいの規模である

当然のように王国軍は敗北。フランス王国の王権は最低レベルに落ち、またこの勝利によって反乱した諸侯たちは王に対して様々な要求を突きつけられる状態になった。

諸侯たちは権益や名誉を目当てに評議員の席に群がり、その席取りに出遅れたものはさらに不満をためこんだ。ポワティエ公フルクが強引な手段で摂政に居座っていたため、彼を嫌うもの、自分こそ摂政の地位にふさわしいと思う者たちも憤激した。

フランス崩壊の5年前のセーブデータで確認したベルナール1世への封臣の評価。
ベルナール自身の人格に評議会の議席問題、それに加えて摂政フルクが同輩たちの領土剥奪を何度も試みたことなども影響しているようだ。

フランス諸侯たちの共通認識は、既にこの王国が機能していないということであった。先の反乱から5年後、再び結集した諸侯たちはベルナール1世の廃位と、フランス王国の全ての封建契約の破棄を決定。

今度こそ抵抗不可能であることを悟ったベルナール1世は彼らの要求に屈し、ここにカペー朝フランス王国は崩壊したのである。

史実では長期に渡って安定した継承を実現し、カペーの奇跡とも称されたカペー朝フランス王国だったが、この世界では幼君の連続に悪王の登極、反乱による政府の破綻、そして摂政の専横と、滅亡の王道ともいうべきルートを辿ってしまった。
セーブデータで状況を見ていくフルクの強引な摂政就任の影響も大きい。まさかこんなことになるとは…

去りゆく旧世代

フランス王国が失われても、トゥルーズ女公とサラジンによるフルクとの戦いに終わりは見えなかった。そして1106年4月29日、サラジンに悲報が届く。夫ロドリーゴが戦陣で病を得、そのまま逝ってしまったのである。享年58歳。

その2ヶ月前には、僅かな機会を見てアルバラシンへ戻った彼と遠乗りに出かけたばかりであった。

年齢を考えれば無理もないとはいえ、やはり悲しいものがある。頼りになる男だった…

十字軍の柱石・ロドリーゴの死に、アルバラシン城は悲しみに包まれた。だが戦争はそんなことはお構いなしに進んでおり、いつまでも悲しんではいられない。戦局を打開するため、サラジンはついに本国の十字軍兵士の投入を決断。

側近のハンス・オブ・フィンスタと、元帥を務めるフラガ伯ソーリーに指揮を委ね前線に送り出した。

ハンスはスウェーデン出身の小貴族で、旅の世話役・侍医・指揮官とマルチな役割をこなす優秀な廷臣。
フラガ伯は十字軍諸侯の中でも際立った軍事能力を誇り、十字軍の中でもロドリーゴに次ぐ武将である

また、ロドリーゴの二つ名でもあった「エル・シッド」を称え、その名を王国騎士に引き継いでいくことを決定。騎士サンチュ・ド・コリアスがその栄誉に預かった。以降、「エル・シッド」の名誉ある名はアラゴン王国の騎兵長官に引き継がれてくことになる

2代目「エル・シッド」は鍋の家紋と丸々とした体型があまりにも印象的な騎士サンチュ
能力は平凡だが競技者特性の「騎術」に優れており、軽騎兵を強化するロドリーゴの叙勲属性「警邏」を引き継ぐことができる
慈悲、穏和の特性を持った心優しき巨漢であり、以降長きに渡ってサラジンに仕えることになる

宮廷では女王の再婚をどうするかも議論されたが、サラジンは喪に服すと言ってそれらの話をすべて却下した。貞女との感服する者もあったが、それと同程度には、やはり男を愛せない質なのでは…と噂する者たちもあったという。

既に3人の男児がおり、いずれも健康に育っているので、再婚は不要と判断。
サラジン自身も女王の義務は十分果たしたと言えるだろう

十字軍兵士たちの投入により、父フルクとの戦争はようやく膠着状態を脱し始める。それでもフルクは簡単には引き下がらず、執拗に抵抗を続けた。粘り腰の戦いが続いた末、1108年を迎えてようやく確実な勝利が見えつつあった、そんな矢先のこと。

何というタイミングで…しかも暗殺。犯人の心当たりは多すぎて、ちょっと見当がつかない

1108年2月14日、ポワティエ公フルク死去、享年65歳。死因は不明、暗殺と思われる。果たして人は彼を十字軍の英雄と記憶するのか、それともフランスを崩壊に導いた佞臣と評価するのか。いずれにせよ、この時代の中心にいた人物であったことには間違いなかった。

ポワティエ公位は嫡子フレデリクが継承し、その一週間後にはトゥルーズ女公のもとに降伏の使者が賠償金を携えて到着した。4年半という長きにわたる戦争はこうして終わった。

サラジンの同母弟フレデリック。左目を失っており、隻眼公の異名で呼ばれた。
謙虚・正直・勤勉と、あのフルクの子とは思えない真人間に育っている。なんと策略ゼロとは…

そして何という奇縁か、フルクの死のちょうど同日に、アルバラシンの十字軍宮廷でも、1人の女性が息を引き取っていた。

フルクとサラジンの2代に渡って仕えた密偵アデレードである。アンジュー父娘の影の仕事を一手に取り仕切ってきた彼女の死は、その人生の影の濃さには不釣り合いな静かなものであった。

旧主にして今は敵軍の主となったフルクと同日の死という符号は、口さがない人々の格好の噂の種となったというが、真相を知るものは誰もいない。

あまりにも出来すぎたタイミングの死。偶然ではあろうが、それにしても出来すぎだ。
なお、一介の平民の女に過ぎなかった彼女の子孫は、一人娘アリックスとその私生児フンベルトを通じて、南仏の名門・トゥルーズ家の遺産を受け継いでいくことになる。
こういう人物が現れるのがクルセイダーキングスよ…
アデレードは最後までしっかり仕事をこなし、アルカニス女伯の領地没収と、アラゴン王レミロ2世の権威失墜に貢献。できる女だった…

古き王国が滅び去り、前世代の人物たちが次々と亡くなったこの時期を経て、アンジュー家の系譜も本当の意味で新たな世代に突入したと言えるのかもしれない。

なお、1103年にはカスティーリャの剛腕王サンチョ2世が、1108年の年明けにはトゥレイトゥラのタイファであるイスマイールが亡くなっている。まさに世代交代の時代だったと言えよう。

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