二代目 アラゴン十字軍女王サラジン その2 (1108~1141)
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バルセロナ攻略
父フルクと長い戦争は彼の死に伴いようやく終結したが、遠征軍がアルバラシンの宮廷に帰還するにはもう少し時間がかかることになった。講和と前後してトゥールーズで今度は分権反乱が発生し、この鎮圧にも手を貸さねばならなくなったのだ。反乱鎮圧が完了し、兵士たちが故郷に帰還したのは1109年9月のことであった。
ようやく人心地がついたアルバラシンの宮廷では、サラジンの長子オトゥンの縁談が進められていた。
イベリアの地ではムスリムとカトリックの婚姻も珍しくはないということで、バタルヨースのタイファであるアル=ムアッザムの娘サアーダも候補に上がったが、最終的にはフランスから、ブルゴーニュ公爵ユーグの娘ジャンヌに白羽の矢が立った。
2年後の1111年6月、サラジンは王位の継承法を改定。西ゴート王国法の流れをくむカタルーニャの法律を採用し、王位継承者がより多くの直轄領を継承するものとした。
将来に向けて国家の体制を整えたサラジンは、外遊も兼ねてコルドバで開催されていたトーナメントを訪問。ムスリムの諸侯とも交流を持ち、競技に参加した騎士たちの活躍に目を細めていたという。
トーナメントより帰還した1112年4月、サラジンは軍の召集を命じた。相手は10年前の戦いでアラゴン王レミロ2世。今度はバルセロナ地方全体の支配権とレミロ2世の国外退去を要求した。アラゴン王国の息の根を止め、名実ともにアラゴン唯一の支配者となることがサラジンの望みであった。
途中で小規模な農民反乱などもあったものの、弱体化著しいアラゴン王国はまったくサラジンの相手にはならず、年が明ける前にバルセロナが陥落。すべての称号を失い、無位無官となったアラゴン王レミロ2世はいずこかへと落ち延びていった。
さらにサラジンは、現地貴族の雄・バルセロナ家の当主ペレ・ラモン2世に対し、以前に彼らの宰相から言質を得た請求権を盾に称号の剥奪を通告。憤激したバルセロナ家は反抗を試みたものの、こちらも1年もたず降伏した。
サラジンはこの地方の中心都市バルセロナを含む所領の大半を没収。バルセロナ家にはピレネー沿いのルサリョー、サルダーニャの2領のみ領有が許され、大きく没落することになった。
この一連の戦争の結果、カスティーリャ王国の支配下にあるサラゴサ近辺を除き、アラゴンのほぼ全域がサラジンの手に落ちることになった。
この後、サラジンは宮廷をアルバラシンからバルセロナに移す。カルタゴやローマの時代から栄える地中海有数の港湾都市であり、交易路を通じて世界の様々な知恵や情報が集まるこの地こそ、自らの王国の首都に相応しいとの考えであった。
大国への道
1113年10月、遷都を終えたバルセロナのサラジンの宮廷に、驚きの知らせがもたらされた。トゥルーズ女公アダライダから、条件さえ折り合うなら、サラジンの封建契約を結び、家臣として忠誠を誓おうとの密かな打診である。
このとき天然痘を患っていたアダライダは、自らが命を落とした場合に領地を受け継ぐ幼い子らの庇護者を探しておく必要があった。
先の2つの戦役で忠実に同盟を守ってくれたサラジンに強い感銘を受けていたアダライダは、フランス王国が崩壊した今、仰ぐべき王、先祖重代の土地の庇護者はサラジンをこの十字軍の女王を置いて他にないと判断したのである。
翌年、天然痘から無事回復したアダライダは、早速バルセロナの宮廷に参上。豊かな南仏の産物や財物をサラジンに献上し、その忠誠をアピールした。サラジンも彼女に家令の地位を与えてこれに応えたのである。
この情勢を受け、サラジンはトゥルーズの隣国、ボソン家のプロヴァンス公ベルトラント3世にも封建契約を打診する。サラジンの評判に脅威を抱いていたプロヴァンス公はこれを受諾した。
こうしてアラゴン十字軍の領域は南仏に大きく伸長。西アルプスからイベリコ山系に至る大国へと躍進したのである。
再婚と分家設立、アンジュー王朝の長へ
一方、この十字軍王国の躍進の影で、ポワティエのアンジュー本家、弟フレデリクのもとでは問題が起きていた。
1112年9月、父フルクからソミュール伯領を相続していたサラジンの異母弟レーモンが、わずか16歳で急逝。家長であるポワティエ公フレデリクが、これをオーストリア女公ヴァルプルガの仕業であると断定し、アンジューの家名にかけてバーベンベルクの犬に復讐せなばならないと気炎を上げたのだ。
時間を置いて頭を冷やしたのか、翌年1113年の暮れにはこの宣言をとりやめたフレデリクだったが、この弟の行動にサラジンは危険なものを感じた。
遠く神聖ローマ帝国の東方辺境を治めるバーベンベルクと本格的な争いとなれば、お互いに刺客を送りあう戦うことにとなる。弟フレデリクは善人ではあるが、このように短慮な振る舞いで大事な息子たちを危うい目に合わされてはたまらない。
そのためにはサラジン自身の家を創設し、アンジュー王朝の中でも自立した存在であることを内外に示す必要がある。だが、それには条件があった。婿取りである。配偶者を持たない者が家を建てるなどと言っても、誰もその言葉に納得しないのである。
サラジンが再婚を考えるようになったのはこういう事情からであった。とはいえ、40の坂を越え、これ以上子供を作るつもりもなかった彼女に、今更若い夫を迎える意思はなかった。
あれこれと探した末、見つけたのがカスティーリャの没落貴族ララ家のロレンツォ・ムニオス・デ・ララであった。同盟を増やしすぎれば子どもたちの縁組の妨げになるが、平民との結婚はサラジンの威信に傷がつく。その点で没落貴族というのは都合が良かったのである。
ロレンツォは放蕩者として知られていたが、その好みは女ではなく男の方を向いていたという。後に彼の不貞が疑われたこともあったが、サラジンは特に関知することもなく自由にさせた。
夫が誰と情を交わそうと興味はないと言った風情であり、ロレンツォもそれを承知で、放蕩しつつも共同統治者としての役割は粛々とこなすという、奇妙な信頼関係がこの夫婦には成立していたようだ。
そうして分家設立の準備を進めていた、バルセロナ遷都の翌年1114年4月のこと。サラジンの次男で、前年に成人したばかりのジェローが何者かに殺害されるという事件が発生。犯人は判然としなかったが、サラジンはバベンベルク家との抗争の影響を疑っていた。
やはり、ポワティエのアンジュー本家に采配を握らせていてはいけない。決心を固めたサラジンは、この直後より「アンジュー=サラジヌス家の家長」を名乗るようになる。
十字軍の女王として多くの兵力を抱えるサラジンの言葉はアンジュー本家の者たちにも重きをもって受け入れざるを得なくなり、彼女こそアンジュー王朝の当主と世間に認識されるようになったのである。
さらなる拡張
これ以降も、南仏諸侯へのサラジンへの臣従は続いた。
1114年11月にはガスコーニュ公アトンがサラジンに忠誠を誓う。
さらに1116年には、アルマニャックを抑えていたアキテーヌ公アリャスが死去し、庇護者を失ったアルマニャック諸侯は続々とサラジンに臣従した。
1117年には、サラジンは初めてムスリム勢力と戦端を開く。バレンシア方面に割拠するアンダルシア人のラワス一族に対し、従属を要求し宣戦を布告した。3年の時間をかけてじっくり攻略し降伏させると、サラジンは宗教的保護と引き換えに彼らの忠誠と貢納を約束させた。
継承危機
拡張を続ける十字軍王国だが、一方で王家には悲劇が襲いかかっていた。
バレンシア攻略戦が展開していた1118年、長男オトゥンが若干23歳で死去したのである。
バルセロナに遷ったサラジンは、自分に替わってアルバラシンをはじめとした西アラゴンの旧領をこのオトゥンに治めさせていた。またオトゥンは如才なく人と交流し弁舌を振るう外交の才があり、サラジンは十字軍王国の宰相を務めさせるほどに彼に期待をかけていた。
だが、肥大化する十字軍王国を引き継ぐ未来をあまりに重く感じていたのか、それとも領主としてあるいは宰相としての務めに耐えかねたのか。オトゥンはいつの間にか極度のストレスを溜め込み、健康にも影響が出るほどであった。
そして気分転換にと出かけた狩猟旅行の途中で事故により重症を負い、さらに医師の治療ミスが重なった。
継嗣として期待を寄せ、領地の他に宰相の職も任せていた長男オトゥンを突然失ったサラジンの衝撃は計り知れないものがあった。
さらに厄介なことに、オトゥンには嗣子がいなかった。4年前に死去した次男ジェロームに続く夭逝に、サラジンとロドリーゴの血を受け継ぐのは3男のジェルドゥインだけになってしまったのである。
このときサラジンは46歳、今更望んでも子供は難しい年齢であった。
ジェルドゥイン夫妻の様子に気をもみながら見守っていた1121年の暮れ、ようやく吉報が届く。ノルマンディー女公アドラが無事にジェルドゥインの子を出産。ウードと名付けられた男子は健康そのものことでった。
この時期はアンジュー=サラジヌス家のみならず、アンジュー一門全体で不幸が相次いでいた。
1119年にはサラジンの異母弟のトゥーレーヌ伯ギレムが戦死、1120年には同じく異母弟のアンジュー伯ジョフロワ4世が食あたりで逝去。どちらも27歳の若さで、ジョフロワのほうには嗣子すらなかった。
そして1124年には本家の長、ポワティエ公フレデリクまでが、傷が悪化し44歳で死去。ポワティエ公位を継いだのはわずか4歳の一人娘エルヴィであった。
そして1226年。残された家族の健康と長寿を祈るため、サンティアゴ巡礼に向かっていたサラジンのもとに、早馬が到着した。届いた報せは、兄オトゥンの領地を引き継いでいたジェルドゥインが溺死したというものであった。奇しくも兄オトゥンと同じ、享年23歳。サラジンは3人の息子、全てを失ってしまったのである。
これで残されたアンジュー=サラジヌス家のメンバーは、サラジンと孫のウードだけとなった。王国が拡張を続けていく中、アンジュー王朝の継承の糸は限りなく細くなっていったのである。
地中海進出
王家の継承危機をよそに、サラジンの王国は成長を続けていた。
サラジンの直轄領となったバルセロナ周辺の支配もようやく落ち着いた1124年、サラジンは教皇に資金を要請し、正式にアラゴン王として戴冠した。以降、サラジンは主にアラゴンの女王と名乗るようになる。
翌1125年にはサルディーニャ島の北端のガッルーラを征服し、地中海への橋頭堡を得た。
1129年には、弟フレデリクの跡を継ぎポワティエ女公になっていた姪エルヴィを臣従させる。先年に臣従していたアキテーヌやオーヴェルニュを加え、アキテーヌ全域からアンジュー家の本貫地であるロワール川流域まで抑えることになった。
1130年には、シチリアのバーリを請求してシチリア王国に宣戦する。ここはもともとサラジンの姉エルマンガルドの婿アレクサンダーが治めていたが、シチリア女王によって剥奪の憂き目にあっていた。
さすがにシチリア王国はあっさり敗北することはなかったものの、ここも国力差は歴然。2年後には降伏し、イタリア半島にもアラゴン王国の足がかりが築かれることになった。
一方、バルセロナの宮廷では、王配ロレンツォ・デ・ララが暗殺されるという事件が起こった。一年後、事件はロレンツォを敵視していた当時の密偵頭アロフであったことが発覚、サラジンは彼女を捕えて処刑した。
ロレンツォを愛することも、前夫ロドリーゴのように友と思うこともなかったサラジンであったが、それでも相互に適切な距離感で外向きの関係を維持してくれたロレンツォの死に思うところがあったのかもしれない。
1133年には、影に日向に彼女を支えてくれた友、女官を務めていたアリックスが死去。享年62歳。悪童より助けてくれた幼い日より50年、立場が変わっても常に変わらぬ友情を貫いてくれた、無二の親友であった。
それでも葬儀ではサラジンは気丈に振る舞った。まだここで親友の後を追うわけにはいかなかったのだ。
晩年
これ以降、サラジンは王国の拡張を控え、バルセロナ周辺の領土開発に注力していくことになる。地図上では大国になったアラゴンだが、隣国のイングランドや神聖ローマ帝国に比べ兵力で劣っており、内治を整える必要があった。
唯一の継承者である孫ウードに少しでも良い状態で王国を引き継ぐべく、サラジンは領土の発展に没頭した。
ウードはサラジンの手元、バルセロナの暖かな気候の宮廷で養育され、すくすくと成長。思いやりに欠けるところはあるものの、サラジンに良く似た気宇壮大さ、勇敢さを備え、優秀な武人王となる片鱗を見せていた。
1136年、14歳になったウードに、サラジンは縁談を用意する。婚約者はウードより2歳年上のチュアナという名の娘で、こちらもサラジンの宮廷で養育されていた、かつてサラジンに王位を追われたアラゴン王家に連なる娘である。
国内外の大諸侯との同盟などが望めないこの縁談については、アラゴン家との婚姻を通じて、ウードの正当性を強化する狙いだったのではと言われる。
1138年、ウードが成人する。ウードは軍学の方面に高い才能を発揮し、立派な戦士・軍人として王国を導いていけるだろうと誰もが太鼓判を押す、そんな男に成長した。
孫の成長を大いに喜んだサラジンは、ウードの成人を祝う宴を開催。ここまで張り詰めた思いでウードの養育と国内整備に励んでいたサラジンだが、このときばかりはリラックスした様子で、立派に育った孫の姿に目を細めていたという
この宴で、サラジンは宴席を共にしたある人物と親しくなった。バレンシアを治めるラワス家のアスパトという、敬虔なムスリムの青年である。サラジンが彼の手を取り、孫への忠誠と助力を願う姿は、女王というよりも普通の老女のようであったという。
この日以降、サラジンは緊張の糸が解けたのか、一気に老け込むようになった。あれだけ好んでいた遠乗りを行わなくなり、重圧を溜め込んでもじっと耐え忍ぶかのように目を閉じるばかりであった。
精神的にも肉体的にも精彩を欠く場面が目立ち、家臣たちの目にも色濃い老いの影がはっきりと映るようになった。
そして1141年6月19日、十字軍の指導者にしてアラゴン・アキテーヌの女王サラジン・ド・アンジュー=サラジヌスは、バルセロナの宮廷で眠るようにして亡くなった。享年69歳。
父フルクの野心のために宮廷の貴婦人から十字軍の女王となり、異郷の地で王として多くの文化・宗教の民を従え、ついには地中海に広がる大国を築き上げた偉大な女性であった彼女は、その後継者に王国を譲り渡す最後の役割を見事に全うし、神のみもとに旅立っていったのである。
次回三代代目ウードの治世へ続く